1001 真崎=気仙沼市唐桑町出山(宮城県)白い石の海岸線をもつ出山の真崎にも大理石の層がつながっているのか [岬めぐり]
集落が消えた只越の海岸で、なにもないところに自動販売機やよしずで囲まれた仮設トイレをわざわざ設けたのは、いわば交通の要路にあたる街道筋の心意気のようなものではなかっただろうか、と想像してみる。
こういう、どうでもいいいろいろなことを、一人勝手に想像してみるのが、なかなか楽しいのである。
只越のT字路を南(右)へ行けば御崎神社と岬であり、北(左)へ行けば大理石海岸を経て真崎と竹の鼻で、その北で宮城県と気仙沼市は終わる。
北への45号線は、道がだんだんと高いところを通るようになり、海からも遠くなる。
唐桑のミヤコーのバス路線は、南へ行く御崎線と、北へ行く大沢線があるので、真崎へ向かうには只越でバスを乗り換える。大沢線は日に4本で、こういう路線はだいたい、中高生の通学用メインにダイヤが組まれていることが多い。大沢線も気仙沼西高が終起点だ。
前項で、唐桑村と小原木村が合併したと書いたが、「小原木」という字地名がどこにも残っていない。この村は、いったいどの辺だったのだろう。
探してみると、大沢線の只越と終点の大沢の中間付近に、小原木小学校や小原木中学校がある。ちょうど“大理石海岸”の標識があるあたりである。
その大理石海岸まで歩いてみる計画も、何度も練ってはみたが、どうもうまくいかないので、ここは通過しておく。大理石海岸は、もうひとつこの北の岩手県にもあるので、そちらで代表させればよかろう。
小原木の北が唐桑町館である。また、前項を思い出してもらえれば、唐桑は葛西氏の家来である阿部氏が400年にわたって治めたというが、そのとき唐桑には北館と南館のふたつの拠点を置いたらしい。さすれば、ここが北館のあったところなのだろう。
また、勝手な想像の翼を広げてみれば、阿部氏の北と南のふたつの館が、小原木村と唐桑村の元になっていたのかもしれない。
この唐桑町館の付近から、真崎は見えてきてもいいはずなのに、残念ながらここらは海がさっぱり望めない。
結局、東浜街道がバイパスの唐桑道路と合流してまた1本の45号線に戻って下って、海が近くなるまで見えない。荒谷前でバスを降りて、入江が望める高いところまで引き返す。
道路を戻ったところのカーブに、ドライバーのための休憩所のようなスペースが設けられている。真崎はここからの眺めがいちばんよい…。といいたいところだが、地図をよくみると地図上の真崎の表記は、少し北寄りにつけられているので、それはここからはちょっと陰になっている。
真崎がある出っ張りは、121メートルの出山という一塊で、その東南端に岬が延びている。
出山は、明らかに昔は島だったと想像できる。字地名も唐桑町出山と単独で名をもつこの山は、西側で唐桑町港の平地につながっているのだ。出山だけで名がつくのはそこに集落があったからだろうし、それは出山が島だった時代から続いていたのかもしれない。現在も、出山の西山麓付近にわずかに屋根があるのが見える。
出山が切れて、道路側の荒谷との間に、大き目のブロックで固められた弓なりの海岸がある。そのブロックさえも、津波の影響ではないかと思わせるような乱れた形跡をとどめている。
対岸に見える出っ張りが、大理石海岸にあたる。そこは遠くて何もわからないが、出山の海岸も一筋の白い帯のように岩が連なっている。
石灰岩がマグマとふれることで再結晶した変成岩である大理石は、建材などに広く使われているほか、その模様がマーブルであり、その名が中国の大きな産地によることは、よく知られている。
この三陸に大理石海岸の名がふたつもあるということは、この付近でも石材として産出していたのだろうか。ウィキペディアでは、日本の大理石産地として岩手県はあげているが、宮城県は列挙されたなかに入っていなかった。45号線の沿道には、“浦住石材”という看板も見かけた。
入江の岸で、落ちていた白い小石を持ち帰った。こういうことは、たいてい誰でもよくすることだが、よほどの石マニアで目的のはっきりしたコレクションでもない限り、あれはどこへいっただろう…ということになる。でんでんむしも、石マニアではない。
▼国土地理院 電子国土ポータル(Web.NEXT)
38.955509, 141.643057
東北地方(2013/07/04訪問)
2013-09-09 00:00
きた!みた!印(40)
コメント(0)
トラックバック(0)
コメント 0