□15:昭和20年・広島の夏の日=その3 宮島さんの神主がおみくじ引いてもわからない [ある編集者の記憶遺産]
5■南竹屋町と千田町
あなたの場合、いったい「一番古い記憶」というのは、何歳くらいの時のものだろうか。おそらく、誰もはっきりとは「何歳何年のこれ」と特定はできないだろう。
わたしの場合も、そうなので、古い順に並べることなどできない。だが、それらの断片のいくつかは、すべて南竹屋町の生家とその周辺でのことだった。
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アスベストのニュースで、解体作業の映像が流れると、三本松の「角屋」が強制疎開で引き倒されていたことを、あの土壁のにおいとともに思い出してしまう。散歩で体操をしている人たちをみると、「間(はざま)酒店」の前の広場で、ラジオ体操をしていた光景が浮かんでくる。
それらを、こんなところにいちいち書いてもしかたがないのだが、今にその記憶の証拠物件が残っているのをみると、なんともやるせない。お医者さんの「東儀さん」は、子孫のどなたかが継いでいるらしく、今も医院の看板が出ている。
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「千田小学校」も、今もそこにあるのが不思議な気さえする。その入り口には石の門柱があり、兵隊さんの歩哨所があった。防火訓練や金物供出の記憶がある千田小学校には、原爆の記憶を留めようという努力をしてきたらしく、いくつかの痕跡を今に残している。この門柱も昔のままのような気がする。
校門の横には、被爆したクスノキが今も葉を茂らせていた。
運搬手段は、もっぱらリヤカーであり、大八車である。人力車は今でも浅草や鎌倉にごろごろしているが、大八車はなくなった。時代劇によくでてくる大きな二輪車で、主に荷車の用途である。リヤカーにも、説明がいるだろうか。これは自転車の横に車の付いた荷台をつないだもので、オートバイのサイドカーのようなものだ。
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その大八車に、さまざまな金物をいっぱいに積み込んでいる。それを引いて押して、千田小学校の校庭まで運んで行く。そうして、集められた金属類が、みるみる山のように積み上げられていく。
各家庭から供出させた金物を、兵器や資材に再利用するためである。
別の日、千田小学校の校庭ではまた別の行事が行なわれていた。
もんぺ姿に手ぬぐいを頭に巻いた女の人たちが、ご近所総出で何列かになってバケツ・リレーをやっている。その先には燃え盛る火炎がある。掛け声とともに、必死の消火訓練は、迫力があった。
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小学校の前には川が流れていて、橋には低い石の欄干があった。平野橋というのがその橋の名前だったというのも後から知ったその橋も川もないが、その頭の丸い石は、小学校のなかにちゃんと保存されていた。だが橋の名前は、今の京橋川にかかる四車線の大きな橋にそれを譲ったらしい。
高い金網に囲まれていた「広大(当時は別の名前だったが)のグランド」にもよく行った。今、そこに広大はないが、グランドと敷地の跡は、やはり金網のフェンスに囲まれている。
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数年前に、わざわざこの町を訪ねて、そこらを歩いてみたのだ。生家があったとおぼしき場所には、それを特定するなにものもない。家の前には畑が広がり、その向こうには広島のシンボルのひとつでもあった比治山が見えていた。今、畑はなく、比治山も建物の陰になる。
ただ、家の前から三本松と呼ばれていた神社の祠(これも後から知ったが、お稲荷さんだった)まで、広い坂道があったと思っていた。
今見ると、道は広くもなく、坂も記憶の傾斜よりもだいぶ緩い。三叉路の真ん中にあった三本松のほこらも、ビルの下のわずかな隙間に押し込められていた。
6■生家での記憶
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生活の場は、足が折り畳みできる丸いちゃぶ台を囲むお茶の間で、そこに集う何人もの人の影があったが、あまりよくは覚えていない。
電気は白色ガラスの笠に、後知恵では松下幸之助が考案した「二股ソケット」がついていた。ラジオは、神棚と同じ鴨居の高さにあり、これも「ナショナル受信機」だったらしいが、ここでラジオを聴いたりした記憶は、ほとんどない。
だが、蓄音機はよく聴いた。ピックアップの先はゲンコツのように丸く重い。鉄筆の先のような針をつけて、分厚いレコード盤にのせる。箱の横に手回しのハンドルがついていて、これを回さないと回転が落ちて、音が「る〜〜ん」と変になる。
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夜は、二階の部屋で寝ていたのだろうか。電気の笠には、ふろしきのような布が巻き付けてあるので、薄暗い。怖い夢もよく見る。
昼は、怖くない。二階の部屋には祖父が手造りの石造りの柵で囲まれたテラスがあり、そこから比治山が正面に見える。
比治山の右横辺りには、何をするものか何のためかはよくわからなかったが、飛行船がよく浮かんでいた。
それを眺めながら、着物を着た女の人と一緒に歌う。“見よ 東海の 空明けてぇ〜 旭日高く…”
女の人は母ではない。もうそのときに母はいなかったので、それは叔母たちだった。
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祖母の記憶は、白い前掛け(エプロン)をして、かいがいしく台所で立ち働く姿であった。上品な味のする箱寿司や、フライパンで焼くさ
まざまな形のクッキー(というよりお好み焼きの元祖に近い)、戸棚からだしてくれる干しバナナ…食べ物の思い出ばかりというのも申し訳ないが、もっぱらその祖母が南竹屋町の家でわたしのめんどうをみ育ててくれていた。
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市内の交通機関は、一応正常だったらしい。広島の町中には路面電車が走っていた。それに乗って、ヒモからぶら下がった木の把っ手のようなものを引くと、チンチンときれいな音を立てた。今度はバスに乗り替えて、太田川をさかのぼって、結婚していた上の叔母の家を訪ねて行った記憶がある。
途中、神田橋を過ぎ、工兵橋にかかると、バスが走る土手の下には、戦車がずらりと並んでいるのが見えた。
下の叔母は、まだ女学生で、比治山にその学校はあった。
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家の前の道路の向かいには、蔵があり、井戸があり、セメントでできた防火用水桶があり、祖父の仕事のための物置きにもなっていたのか、少し広い空間が開けていた。
誰かが仕事でも車を使っていたのかというと、そんな記憶はない。あったとしても、ガソリンはもう手に入らなかっただろうが、もちろんこれも後から考えることだ。
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動くブリキのおもちゃが気に入っていた。
サイレンを鳴らし梯子が伸びる赤い消防自動車、機銃がバリバリと火花を散らして走るゼロ戦…。すごいぞ…バリバリバリ…。
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風呂場はそう広くはなかったが、西日本で多かったいわゆる五右衛門風呂で、鉄の円い釜が据え付けられ、釜の下で薪などを燃やして湯を沸かす。
鉄の釜では、乾いたところに触れるとやけどをしそうだが、湯の中では背中をつけても平気で気持ちがいい。ただ、底だけは木製かセメントでできた板を入れる必要がある。
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この風呂場は白いタイル張りで、その一面には厳島神社の朱色の大鳥居と回廊と弥山まで取り込んだ風景を描いたタイルが使われていた。そこで、いつも大声で歌う歌があった。「宮島さん」というのが正式題名かどうかも、よくわからないが、それで通ってきた。野球フアンの方ならご存知の、広島東洋カープの応援団が、得点の度に大合唱する、あの歌。もちろん、カープなどまだない昔の文句はちょっとだけ違っていたが、○○の部分を入れ替えて多目的に使える。
戦前から、広島は広島商業を頂点とする野球熱の盛んなところだったのである。この歌も、その辺からきているらしい。
「宮島さんの神主が おみくじ引いて 申すには
きょうも ○○ 勝〜ち勝〜ち か〜ちかち…」
(2005-07-末 記・2012/08/03 So-net 採録)
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