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□16:昭和20年・広島の夏の日=その4 米軍機が撒いていった警告ビラをみた祖父はこどもたちを疎開させた [ある編集者の記憶遺産]

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撒かれたビラは単なる脅しではなかった

 三本松の前に、人が集まっている。中心に立っているのはサーベルを下げた軍人で、人々が手にビラをもっている。そのビラなら、空から大量に降ってくるのを見た。なにかのお祝いのようにきれいに、それは賑やかに華やかに舞い降りてきたものだった。
 もちろん拾ってみた。紙は薄くてぺらぺらしていたが、軽くて丈夫そうで、別の世界から降ってきたもののようだ。
 ビラには、下手くそな字と絵が描かれていた。いろいろな図柄があったようだが、ひとつだけ覚えている。その絵柄には、家が赤い炎を上げていて、その上には大きな飛行機が覆いかぶさっていた。それは、とくべつ広島だけに向けた内容なのか、それとも各都市に撒かれたものと同じものなのか、わからなかった。
    ■
 そのビラだが、井伏鱒二が『黒い雨』で書いているところでは、次のようなくだりがある。
 
 『ふと僕は、先月の上旬か中旬ごろ敵機の落して行った伝単の文句を思い出した。「いずれ近いうちに、ちょっとしたお土産を広島市民諸君にお目にかけたい」という意味のことが書いてあったそうだ。』(新潮現代文学2)
 
 これを読むと、そのビラは明らかに広島に向けた警告だったことがわかる。原爆について、アメリカ軍がそれとなくにおわせ、伝単(ビラ)で予告したことは、はずれなかった。
 それは、予告というより確かな警告だったのだが、その意味をまともにありのままに想像できる日本人は、当時あまりいなかった。
    ■
 第一、こんなビラを、いったいなんのために、アメリカ軍は撒いたのだろう? 
 無益な抵抗を続けている敗残兵に投降を促すためのビラなら、自軍の兵士の損傷を避ける意味もあろう。だが、このビラには、なんの意味もない。危ないから早く逃げろ、といっているわけでもない。
 あるとすれば、自分たちの優位性を誇示し、“お前達の命は俺達の自由にできるんだぞ”と勝ち誇った見得を切っているに過ぎないのだ。
     ■
 だから、こんな一見ふざけたようなビラを見ても、受け止め方は一様にはならない。こりゃあ危ないと思って具体的な行動を起こした人と、それほどのことではないと無視しなにもしなかった人と、だいたい二つに分かれた。
 祖父は、前者であった。
    ■
 祖父はこれを見て、広島に万一のことがあった場合を考えた。そして、夫を招集された上の叔母とそのこども(つまりわたしの従兄弟)とわたしの三人を、府中町字外新開の畑小屋に、疎開させることにした。


リヤカーに乗って“疎開”

 五歳児の記憶というのは、かなりまだら模様をしている。
 はっきりと覚えていることもたくさんあるが、その前後の出来事やそれとの関係性についての記憶は、あやふやになっている。 祖父の意思決定は、素早く迷いはなかったようだった。府中町の畑には貸家もあったが、そこに上の叔母と従兄弟とわたしの三人が住めるようにしようという計画だったらしい。
 しかし、それまで待たずに、急いで畑の片隅にあった小さな小屋に、三人を疎開させた。
    ■
 南竹屋町の家と府中町の畑小屋は、直線距離にすると5キロ足らずであろう。だが、猿猴川があるため、広島駅に近い方をぐるっと回っていかなければならない。
 大正橋という橋が一番南の橋だったが、記憶ではこの橋は戦後は焼け落ちて、人が一人やっと通れるくらいの仮橋になっていたように思う。『黒い雨』でもこの橋の名前が出てくるが、ちゃんと渡れているように書かれているので、どうもいつ落ちたのかわからない。
    ■
 それに、昭和20年の夏には、市電はともかく、ガソリンを使う一般の交通機関はほとんど機能していなかった可能性がある。木炭自動車の乗合いバスが走っていたような気もするが、それに乗った記憶がないし、それは戦後のすぐのことだっかもしれない。
 国道を自転車の横に荷台の車が取り付けられるようになったリヤカーで、行き来するのだ。さすがにこういうものも、いつからかなくなってしまっている。
    ■
 この荷台に、まだ歩けるようになって間もない従兄弟と五歳のわたしを乗せ荷物も載せて、叔母がひたすら自転車を漕いでいくのだ。
 荷台には、二人のこどもが乗り心地がいいように布団も敷かれていて、飲み物も大きな容器に用意されていた。その味も、ときどき記憶に甦るのだが、それが麦茶だったかミカン水のようなものだったのか、定かでない。
    ■
 畑小屋は、ほんとうに農作業のための道具を収納している物置きで、その片側には二畳ほどの畳も敷いてあった。そこに三人が寝泊まりする生活は、そうして始まった。
 煮炊きは叔母が、小屋の前に七輪を出して行ない、“田舎の生活”がものめずらしかったわたしと従兄弟は、日々新たな経験をして遊ぶのが仕事だったが、ハイジのような…というほど牧歌的な毎日だったわけでもなかった。
     ■
 そんな生活は、あくまでも仮住まいなので、必要な物資などを運ぶのと、祖父母に孫の顔を見せるのと両方で、十日に一度くらいは、南竹屋町にまたリヤカーで帰り、一二泊してまた府中町へ戻るといったことを繰り返していたのだ。
 ただ、それでは、あまり疎開の意味もないのだが…。
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dendenmushi.gif(2005-08- 記・2012/08/04 So-net 採録)

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きた!みた!印(28)  コメント(3)  トラックバック(1) 
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コメント 3

青竹

出鱈目な時局の報道とプロパガンダの中で
真実を見抜き、どうすべきかの判断から迷うことなく
対応を取れる人は多くありません。
あの時代にそのような判断が出来たお爺様は
冷静沈着な方ですね。
by 青竹 (2012-08-04 09:54) 

みぃにゃん

御爺様の行動のおかげで今あるのかもしれませんね。
大半の方はその場にとどまったのかもしれませんね。
府中から広島はかなり遠いのでしょうか?リアカーでって伯母様も大変だったでしょうね・・・。
by みぃにゃん (2012-08-04 12:53) 

dendenmushi

@青竹さん、みぃにゃんさん、ありがとうございます。
確かにそうですね。祖父はいろいろな点で、なかなかの人だったように思います。
冷静沈着かつ剛胆なところもあったようで、それは祖父がこの災厄のなかを生き抜いたことでもいえるかもしれません。
そう、叔母も大変でした。往復すると12〜3キロもあったでしょうから…。
by dendenmushi (2012-08-04 22:19) 

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