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□14:昭和20年・広島の夏の日=その2 天候条件がよかったから原爆は広島を選んだ [ある編集者の記憶遺産]

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広島とはどういうところだったか

 最近でこそ「ヒロシマ」とカタカナで書かれることは少なくなった、「広島」とはいったい、どんなところだったのだろう。花崗岩でできた中国山地を削りながら土砂を運んできた、太田川の三角州の上に、最初に築城し町造りをしたのは、毛利輝元である。そのとき、自身の先祖に当たる毛利の大祖、大江広元の名に因んでその名をつけた、ともいわれる。
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 それ以前は、今の市街地の中心部は全部海であったのだろう。100メートル道路を縦断する電車通りには“白神社”という巨岩の社があるが、この岩だけがぽっかり海面に突き出ていたのかもしれない。
 厳島神社を造った平清盛も、ここは素通りしているようだし、神武東征伝説では、その途上で、今の安芸郡府中町は呉裟々宇山(下りの新幹線が安芸トンネルを出ると右手に、上りの新幹線が広島駅を発車するとすぐ左手に見える山。付近の最高峰)の麓、多家神社のところに船を停めたという記録がある程度である。
 長州征伐の時には、幕軍の前線基地だったし、忠臣蔵の浅野家の本家がここであった時期もあるが、さほど歴史上に大きな役割を果たした地、というわけでもなかった。
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 明治の廃藩置県で、安芸と備後の旧二国が広島県となり、明治13年に県令として赴任してきた薩摩藩士だった千田貞暁が、その後の近代広島の基礎を築いた。
 彼の努力により宇品という港が開かれ、さまざまな産業も興されるが、何といってもそれが脚光を浴び、その功績が再評価されることになったのは、明治27年の日清戦争の勃発であった。
 “そおらーもみなとも よははーれーてー”という古い童謡は、宇品港の殷賑(いんしん)を謳ったものだが、“端艇(はしけ)の通いにぎやかに”して、ここから続々と大陸へ兵員や物資が送られることになった。おりから、山陽鉄道も神戸から広島まで延伸されていた。
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 戦争指揮のため大本営が広島城内におかれ、時を移さず明治天皇も広島に入り、伊藤博文首相以下政府高官の大部分も広島に移り,帝国議会も広島で開催されるなど、翌明治28年天皇が広島を離れるまでの二百数十日間は,広島は実質上日本の首都になったのである。
 呉には鎮守府がおかれ,広島は陸海軍の西日本における中心地となり、戦略基地となった。その経緯から、当然その後の日露、日中、太平洋戦争でも、ここから戦地に向かった兵員は多かった。「軍都広島」という看板は、こうして固定していった。
 「千田さん」と、大人たちが敬愛を込めて呼んでいたのは記憶にある。千田県令の名は、今に広島の町名に残り、千田小学校も、その名に由来する。
 彼が基礎をつくり、夢に描いた広島の発展、それは本人の思いもかけない方向に伸びていったのだろう。そしてそれが、彼が、いや誰もが、知る由もない運命の辿る道を引いていたのかもしれないのだ。
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 トルーマンが原爆投下を決定したのは、後に弁護され正当化されているように、「アメリカ将兵の犠牲を少なくし、戦争を早く終結させるために必要だった」わけでは、まったくない。
 新しい兵器をソ連にさきがけて開発して優位を確保するために、その威力をどこかで実証したかっただけなのだ。しかも、ご丁寧にもうひとつ、タイプの違うものも長崎でも試している。どさくさにまぎれて、自分の利益のために多くの犠牲を承知のうえで、それを恥じない点において、それは火事場泥棒ソ連の参戦と変わることはない。
 アインシュタインなど科学者の後押しでできたその世界初の究極爆弾を、どこに投下するか、いくつかの選択肢がほかにもあったこと、計画当日の天候も大きく左右し、結局広島に目標が定められたことも広く知られているが、その候補決定に当たって、「軍都広島」のイメージがなんらか影響しなかったとは、誰にも言えない。
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宇品線と比治山の下で

 広島が、日清戦争以来「軍都」といわれてきたのは、大本営があったからだけではない。その後に続くどの戦争においても、物資兵員の兵站基地的な性格を、強くもち続けていた。
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 明治27(1894)年の6月に山陽鉄道が広島まで延びると、そこから宇品までの線路が突貫工事で敷設され、2か月後には軍用鉄道路線が開通していた。広島駅と宇品港を結ぶ、たった6キロ足らずのこの鉄道が、一般旅客を乗せるようになるのは、それから3年後のことである。
 今、広島に行っても宇品線はない。既に1960年代の終わり頃から段階的に旅客営業は廃止され、最後まで残っていた貨物輸送も、1986(昭和61)年に廃止された。だが、その痕跡だけは、付近を歩けばいくつも見られる。
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 この軍用鉄道の沿線にも、軍の施設がいろいろ設けられていた。陸軍被服支廠倉庫や陸軍兵器支廠や陸軍糧秣支廠倉庫などもそうである。
 戦況が厳しくなると、軍は一般の市民や学生をさまざまな作業に動員した。いわゆる学徒動員は、学徒出陣までいかない生徒たちを動員していたものだ。
 早い話、勉強などそっちのけで、毎日、兵隊さんの服を縫ったり、兵器をつくる手伝いをしたり、強制疎開(焼夷弾の被害を食い止めるためと、江戸時代そのままに火除け地をつくる目的で建物を強制的に接収し取り壊す)の取り壊し作業をしたりしていた。
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 比治山の南東側に位置するところにあった広島陸軍兵器支廠に動員され、ここで作業に従事していた修道中学校の生徒のなかには、平山郁夫さんもいた。
 その隣の陸軍被服支廠では、比治山女学校に行っていた下の叔母が、ミシンを踏んでいた。
 日清戦争以来ここにあった被服支廠だが、大正時代のレンガ造りの建物が被災当時のもので、これが旧陸軍被服支廠倉庫として、今に残る。
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 そして、そこから北へちょっと行った段原には、張本勲さんがいた。わたしと同じ年頃だった。
 いずれにしても、軍人や官員が多い町では戦前から検番も盛んで、周りには山ばかりで農産物が自給できるほどの田地もなかった。早くから、消費都市の様相を強く持っていたのが広島である。
 そこで産業を育成奨励しなければならないと、元安川のそばにできたのが、当時では異色の丸いドームを備えた「産業奨励館」であった。
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dendenmushi.gif(2005-07-末 記・2012/08/02 So-net 採録)

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きた!みた!印(28)  コメント(2)  トラックバック(1) 
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コメント 2

みぃにゃん

結局広島に落とされたのは晴れていたからが理由だったのですかね?長崎は違うタイプの原爆おとしたんですね。
日本は丁度良い実験台だったってことですか・・・。
昔黒い雨という映画を観た事がありますが、それでも目をそむけたくなる所ありましたが、現実はそんなもんじゃないでしょうね・・・。
つくづく戦争は絶対してはいけないと認識させられますね。
by みぃにゃん (2012-08-02 10:50) 

dendenmushi

@いろいろな証言から、現在ではそういわれています。あの日の広島のお天気が、曇りや雨だったら、命拾いした人がいたわけですが…。かといって、それじゃそのときは、別の天気のよかった街に落ちていたほうがよかったともいえない、と考えると…。
ホントの現実は、でんでんむしも知りません。資料や記録から想像するしかありませんね。知ってた人は、みんな死んでしまったわけだから…。
日本が実験台だったというのは、あらゆる点からみて、事実でしよう。日本だから、原爆を使ってみた、ということもたぶんあったのでは…。
by dendenmushi (2012-08-03 05:04) 

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