773 佐兵衛ノ鼻=西牟婁郡白浜町富田(和歌山県)あなたはいったいどんな人だったの“さへえ”さんまたは“さひょうえ”さん [岬めぐり]
袋崎よりもさらに南側、250メートルも離れていないところで、入江の入口を守っているのは、佐兵衛ノ鼻である。
ここも道路が出っ張りに沿って、大きくカーブしていて、岬はその先の下にあるという、道路があるところではよくあるパターンの岬である。
だいたい、こういう場所では、カーブの奥に、駐車スペースがあったり、ベンチやトイレがあったりする。また、見晴しがよい場合は、展望台と称されたりするケースもあるが、ここはそういう場所でもない。
単なる道端で、どこにでもある単なるカーブでしかない。それでもガードレールに沿って、車が停めてあったりする。
車を運転しないでんでんむしにはわからないのだが、ドライバーが車を停める場所というのは、なにか理由があるのだろうか。
いつも気になっているのだが、でんでんんむしの住家の前の道路も緩やかなカーブになっていて、いつも家の前によそからやってきた車が停まるのである。別に見晴しがいい場所ではなく、山際である。
隣近所に用があって、ちょっと停車していくというのは、当然なので理解できるが、家の前に停めておいて、車を降りると、それから向こう三軒ではないどこかへ行ってしまう。どうかすると、数時間、半日も帰ってこないこともある。
車族の生態は、ほかにもいくつかふしぎなことがあるが、それはおいといて…。
小名袋は村の坤(※西南※)、山を隔てて十五町にある。その地袋谷川巽(※東南※)より来て海に入る。人家はその海口にある。礒山の出崎両方相続いて浦の形は袋のようで舟繋の地である。これを袋の湊という。その西は小湾をなし、海上に巌が二つ並んでいる。これを対の浦という。当村の辺で荒砥を産し諸国に売り出す。『紀伊続風土記』
“荒砥”というのは、砥石のことだろうか。
…と書いていたところ、「落合道人 Ochiai-Dojin」の ChinchikoPapaさんから、以下のようなコメントをもらった。
「紀国は荒砥の産地だったのですね。小鍛冶が鋼を用いた製品(日本刀など)を焼き入れして、最初に整形したり荒砥ぎしたりするときに用いるのが「荒砥」です。砥目や用途によって、研師の場合ですとおそらく10種類ぐらいはあったのではないかと。どの段階の荒砥を生産していたものか、ひょっとすると「全国区」の製品だったのかもしれません。」
“佐兵衛ノ鼻”というのは、人名に謂れがあるのだろうと、誰でも想像するが、それにまつわる情報はほとんどまったく伝わっていない、残っていないらしい。もちろん、『紀伊続風土記』も調べてみたが、ほかの村ではときどき「孝子」などと人名をあげた記述もあるが、ここにはなにもない。
この小さな入江と、その奥に実にこじんまりとある袋谷集落とそこに暮らしてきた人びとにかかわりのある名前なのだろうが、佐兵衛さんがどういう人で、この岬でなにをしたのか、それがわからない。
ネットで引ける情報は、台風のときの映像をYouTubeにあげたりしている人があることや、アオリイカのポイントであるらしいことくらいである。
もともと伝承が伝わっていないのか、それともそれがネットに吸収されていないだけなのか、どちらなのだろう。
岬の名前では、こういうこともまた非常に多い。
バスで通り過ぎたカーブの下には、広さは千畳敷には及びもないが、固そうな岩のスロープがある。 前項の最後で紹介したヨッシンさんのページに、リンクさせて欲しいとメールを出していたところ、さっそくていねいなご返事をいただいた。
これで、無学のでんでんむしにも岬での地学関連の疑問には、いろいろ教えてもらえると、勝手に期待している。
▼国土地理院 「地理院地図」
33度37分30.13秒 135度23分41.90秒
近畿地方(2011/10/05 訪問)
これは見事な入江ですね。
海賊の根拠地に良いかも、ななんて妄想が広がります。
by ナツパパ (2012-04-07 20:30)
@ははあ、海賊ですか。そういえば、紀州ではあまり海賊というので名前を聞いたことがありませんねえ、九鬼勢力の影響が及んでいたのかどうか…。
雑賀はいますけど、あれは海賊とは言えませんしね。
by dendenmushi (2012-04-08 06:11)
@ナツパパさん、紀州の海賊、忘れていましたよ。重要なのを…。
「熊野水軍」がいました。<(^^)。
by dendenmushi (2012-04-10 05:47)