753 端崎=有田郡湯浅町大字栖原(和歌山県)吾れ去りて後に偲ばん人無くば飛びて帰りね鷹島の石 [岬めぐり]
今年はどうやら平家と清盛が流行りそうだが、幼い明恵の父親は平重国という平家の武将であった。が、源氏との戦で討ち死に。平家が破れほぼ同時に母も亡くなり孤児になった後も、母方の里紀州の源氏の豪族湯浅氏を頼り、最大の武家集団であった湯浅党の庇護の元で暮らしていた。明恵と湯浅の縁には、こういった因縁があった。
あらゆるものがつながって連動しているということを、成人する前から自身の体験から感じていたかどうかはわからない。師の文覚が失脚して一時廃絶の憂き目にあう神護寺は、自身の手により再興されることになる。
結構、波乱に満ち、運命に弄ばれるような生涯を、行住坐臥ただひたすら釈尊への思いで貫いた明恵上人は、歌も多く残している。少年時代、神護寺を訪ねてきた西行(左藤義清)と、一夜歌談で盛り上がったという逸話も自伝にある。
その歌のひとつは、川端康成がノーベル賞受賞講演で、美しい日本のこころを代表する歌のなかにも引用したことで、よく知られている。
雲を出でて 我にともなふ冬の月 風や身にしむ 雪やつめたき
また、前項でふれた「鷹島の石」というのは、島での修行中に寄せる波を凝視していると思い描いていた天竺の釈尊遺跡が浮かんできた。そこで、そこで浜の小石を拾って持ち帰り、それを生涯大切にした。
遺跡を 洗へる水も入海の 石と思へば なつかしき哉
さらに、晩年にもこんな歌を詠んでいるので、鷹島の石への思いは格別だったのだろう。
吾れ去りて 後に偲ばん人無くば 飛びて帰りね 鷹島の石
その石は、現在も神護寺で保存されているので、まだ鷹島に飛んで帰ってはいない。
その、鷹島を望む端崎(たたきざき)は、霧崎の南にあって、自動車道が岬の上を削って通っている。JR湯浅の駅から、タクシーでここまでやってきたのだが、実際のコース順は、まず箕島から湯浅で降りて、バスの都合で湯浅から先に唐尾、衣奈を経て紀伊由良駅に行くバスに乗った。それからJRで再び湯浅駅に取って返し、タクシーに乗った。
唐尾、衣奈経由のバスで、端崎も霧崎も見えるかとも思ったが、それはやはり甘い考えであった。そこで、霧崎と端崎のために戻ってきたのである。
湯浅醤油や味噌の発祥地としても名高い湯浅は、いかにも古い町らしい。市街地は、細い道で仕切られた家並みが密集しているが、そのほぼ真ん中を流れる広川が、南に隣接する広川町との境界になっている。湯浅駅前近くの湯浅町役場と、広川の河口にある広川町役場は、ほんの700メートルも離れてはいないくらいで、こういうのもめずらしい。
東西斜めに横長の現在の町域は、さほど広くはないが、かつてはこの付近一帯の中心地であったのだろう。
端崎と霧崎という二つの岬を擁する海岸は、県立自然公園になっている。湯浅駅からそこへ行くには、市街地を抜け川を渡り栖原坂の峠を越えていく。このルートをバスも一応通っているが、本数は少ない。栖原には、ユースホステルがある。実は、そういうところに泊まってみるのもおもしろいかなと計画していたのだが、これは実現しなかった。
端崎へは、川沿いに西へ尾根の下を巻くようにして走る道があるが、この道は明恵上人の昔にはなかったルートであろう。山を削りながら付けた道なので、岩場になって飛び出している端崎の先は、道路でちょんぎられてしまう。残った先っちょの岩場が、道路からはみ出して海に向かっている。
ここでも、車でやってきた釣り人が多いようだが、マナーはよくない。岩場はなにやらごみのようなものが散らばったままだ。
向かい合う広川町には、名南風鼻、ばべ鼻という岬が並んでいて、その沖に浮かぶ鷹島には神取鼻もあるが、それについては既に書いている。
393 名南風鼻・ばべ鼻=有田郡広川町(和歌山県)南へ向かって走る電車の車窓から
394 神取鼻=有田郡広川町大字西広(和歌山県)味噌も醤油も尺八も
広川町は唐尾から、名南風鼻とともにみた、今回新たに撮った鷹島の姿も加えておこう。
この島の名も、Yahoo!地図ではムシされているが、Mapionではかろうじてついている。
▼国土地理院 「地理院地図」
34度2分17.02秒 135度9分33.25秒
近畿地方(2011/10/04 訪問)
コメント
by お名前(必須) (2013-03-18 00:22)