752 霧崎=有田郡湯浅町大字栖原(和歌山県)明恵上人の紀州八所のうち白上遺跡につながる岬 [岬めぐり]
“明恵紀州遺跡率都婆”という∴史跡マークは、明恵(みょうえ)上人の紀州八所遺跡のすべてにつけられている。それが、湯浅町のこの霧崎の近くにもある。
この世のあらゆるものを全宇宙的規模で捉えようとし、互いの連携と共有がそれぞれに作用しあいながら成り立っているという根本思想をもつ華厳宗の中興の祖とされる明恵上人が生まれたのが、有田川の中流域に少し入ったところの金屋で、現在の有田川町である。
少年の頃、京に上り文覚の弟子になるが、20代の時期には高尾の神護寺をいったん出て、故郷に帰って修行を続けている。その修行と布教に縁の地である八か所が、明恵紀州八所遺跡と称されていて、それが史跡マークで示されているのだ。
しかし、地図の“率都婆”というのが、どうもしっくりこない。
元来は、お釈迦様の墳墓を指すが、日本では墓にある先をギザギザにし経文を書いた細長い板をいうことが多いからだ。調べてみると、確かに最初に立てられたのは「木製の率塔婆」であった。それが朽ちてきたので1345(興国6)年に、勧進によって御影石をもってこれに代えたという文化庁の記録があることがわかった。また、だんだんと率都婆の意味も変わって、墳墓というよりも記念碑としての性格をもつようになったようだ。
国指定史跡になったのは、1931(昭和6)年で、その場所は歓喜寺、筏立、糸野、船坂(有田川町)、西白上、東白上(湯浅町)、星尾(有田市)である。あれ、7か所しか見つからないけど…。現存するのはこれだけらしい。
このうち、前項で紹介したのが有田市の星尾で、この項の霧崎の出っ張りに続く東の峰にあるのが湯浅町の二つ。栖原の集落の上にある施無畏寺も縁の寺で、そこからちょっとした山に登ったところが西白上、東白上の遺跡であるという。
霧崎の南西には、毛無島、苅藻島という名のいくつかの岩島が散らばっている。ここにも、この海の水はどこに通じているかを考えた、明恵上人らしい逸話が残っている。
修行で何度も行った刈藻島に「島殿へ」と、無人島に宛てて手紙をしたため、それを弟子に届けさせたというのである。困っている弟子に、大声で手紙を持ってきたといってそこらの岩の上に捨ておいてくればいいのだと言い、このことは誰にも言わなくていいからと指示したという。なぜ、内緒の話が現在に伝わっているかといえば、その弟子が手紙を捨てずに持ちかえっていたからという。
そのほかにも、自分がみた夢の記憶を逐一書き留めていることでも知られているし、天竺までの行程を自分で計算したり、苅藻島の西の鷹島から持ち帰った石を神護寺に残すなど、どうも理系的な人だったようだ。
僧位、僧官をいっさい受けることなく、一宗一派にもこだわらずに自己の修行を修めようとした高潔な僧であった明恵は、鎌倉仏教各派と高僧が華やかに台頭する時代にあっても、独特の人だったらしい。
霧崎と端崎の間に海を見渡す栖原の修行場は、風光明媚な場所であろうと想像される。上人自身が、西白上の峰では「波の音や漁の声が聞こえてきて騒がしい」と東白上の峰に移ったりしているのだが、標高160メートルほどの小山の上では、海岸近くの集落や漁をする人の声などが、風に乗って山まで聞こえてきたはずである。
でんでんむしにも、瀬戸内海の海辺の山で、遠くの海の声が意外によく聞こえたという記憶がある。
明惠? そんなん知らんがなという人でも、昔の教科書などには山の中で二股にわれた木の上で端然と座している坊さんの絵が載っているのを見ているはずである。あれが、高山寺所蔵の国宝、「明恵上人樹上座禅像」で、その人の肖像画である。
34度2分45.70秒 135度8分47.37秒
近畿地方(2011/10/04 訪問)
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