17 月島の歴史=その3。渡しから橋へ月島がつながるのは明治36年の相生橋が最初 [月島界隈]
1-3 月島が橋でつながった
渡し船で結ばれ水道管の置き場になっていた…
文字通り「島」だった月島への交通は、渡し船だったのです。いちばん北側の佃の渡しは「佃島」「石川島」だけの時代からあったと思われますが、月島ができてからは明治29年に月島の渡しが、明治38年には日露戦勝記念で勝どきの渡しもでき、石川島の造船所専用の霊岸島の渡しを入れれば、
つごう四つの渡し場で船が行き来していたといえます。これらの渡しはできたときは民営のものもあったものが、早い機会に東京市公営となり、渡し賃も無料に
なったようです。
しかし、島は島。水売りの船がやってきたといいますが、水がなくては生活には不便。明治のはじめに大流行して多数の死者をだしたコレラ対策としても、水道の布設が急がれていた時代でしたが、月島まで水道管がやっと延伸されたのは、明治36年以降のことでした。それ以前から、東京市内で進んでいた水道工事
のために、月島は大量の鉄製水道管の置き場として利用されていて、二号地、三号地はこどもがくぐり抜けられるくらいの鉄管がぎっしり置かれていて遊び場ともなり、一号地と二号地の間の月島川は「鉄管堀」と呼ばれていたといいます。
月島で最初にできた橋は「相生橋」だった…
水道管がやってくる少し前に、月島にはじめての橋が架かりました。いまでは佃の渡しのところには佃大橋が、勝どきの渡しのところには勝どき橋が架かって、銀座・京橋方面と結ぶ幹線となっていますが、最初に月島と本土(?)をつないだのは、明治36年に北側で越中島(本土か?)と結んだ相生橋でした。
ありがちなこの名前を聞いても、「あ、あの橋か」と思う人は、そう多くないかもしれません。この橋は、いま清澄通りとして月島を貫く幹線が中の島という
小さな島を経て、門前仲町・深川方面を結んで架けられています。できた当時は木の橋で実際には中の島で中継される二つの橋になっていました。その名の由来
も、月島側が長く深川側が短いところからというのと、永代橋に相対して架けられたからというのと、両説あるようです。ちなみに、鉄骨トラスの現在の相生橋
は、比較的新しいもので、平成6年に架け替えられたものです。しかも、深川側は中の島は橋ではなく地続きになっています。
この橋ができる前の月島の人口は、3000人足らずでしたが、橋の開通とともに人口は増加していくことになります。しかしながら、隅田川河口の浅瀬を埋立ててできたこの島は、まだ充分な土地の高度をもっていなかったようで、月島全域にわたって盛り土をすることが課題となっており、借地の盛り土を促進するため協力者には借地料を減免したりしています。現に、明治の末期には高潮で被害も出て、人口が一次的に激減したといいます。(2003/4 記)
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ご訪問有難うございました。
家の仕事の関係で、幼い頃には(学校が夏休み等の時に限りますが)築地までよく行っていました。
月島はその近くなので、雰囲気的にも似たものを感じます。
by 北海道大好き人間 (2011-01-24 12:54)
@北海道大好き人間さん、築地はでんでんむしも隅田川を渡ってたまにお昼を食べに行ったりします。最近は、築地も観光客や外国人が多くなったり、なんか雰囲気が変わってきたように思えます。
有名な場内のお寿司屋さんなどは、毎日行列ができています。これは以前からそうでしたが…。
by dendenmushi (2011-01-25 06:11)
鉄管堀、懐かしい名前を見ました。
まだまだ変わる月島です。
by 月島小僧 (2014-04-04 15:20)
@月島小僧さん、コメントありがとうございます。
鉄管堀をご存知とは…。ほんとうに昔からいらっしゃる方にとっては、驚きでしょうね。でんでんむしは10年弱くらいしかいなかったのですが、また帰りたい。変わる月島に添ってみたいような…。
月島小僧さんも、もっともっと、変わる月島を見守ってくださいね。
by dendenmushi (2014-04-04 22:49)