09 月島の歴史=その1。月島一号地ができる前はここら一帯は浅瀬の広がる海でした [月島界隈]
でんでんむしが、月島に来た当初、自分のホームページにこんなことを書いていた。それをすっかり忘れていたのだが、月島の情報を検索していたら、自分が書いていたページを発見した、というわけである。なんだ、ちゃんと調べて、うまく書いてあるじゃないか。 というわけで、そのでんでんむしのホームページからの再録で、「月島の歴史」を挟んでおくことにします。
わずかに「石川島」と「佃島」はあったが
江戸時代の切り絵図をみると、隅田川の河口に、ぽつんと小さな島が二つ、描かれています。一つは石川島で少し盛り上がった形で、燈台か見張り台のようなものがのっかっています。その隣に寄り添うようにしてある佃島は、平べったくて小舟がいっぱいよっていて、その沖は、江戸前の海が広がっていた…。そんな様子は広重なども版画に残しています。
明治初期にはその沖に浅瀬もできていた
幕末から明治初期には、石川島(いまのリバーシティ付近)と佃島(いまの住吉神社の南西付近)が、ぽつんと浮かんでいただけで、月島はまだ海の中ですた。このあたり隅田川の河口一帯には川が運んできた土砂の堆積で、かなり広範囲に浅瀬ができてました。
この浅瀬は、明治10年代の東京市の地図では、形はまちまちながらはっきりと描かれているので、単に浅い海というのではなく、干潮時には砂州が姿を現すようなものだったようだと思われます。明治12年の東京市全図では、お台場の近くまで延びる中州が描かれています。
そもそも、明治の半ば頃というかなり早い時期から埋め立てが始まったのは、隅田川の堆積が船の往来を妨げとなってきたため浚渫の必要が生じてきたことがきっかけでした。浚渫した土砂を石川島・佃島に続く浅瀬に積み上げて、埋め立てをすれば、「一石二鳥」だということは、だれでも考える「名案」だったのでしょう。
明治初期の石川島・佃島は
江戸時代には、鬼平や大岡越前でもご存知のいわゆる「人足寄場」といわれた懲役場があった石川島と、漁師の家が並び周りは船溜まりが囲んでいた佃島は、水路で区切られていて、もともと別々の島だったのです。
明治のはじめごろまでは、石川島は東京府の懲役場だったのが、その後一時期は国の法務局管理地になり、北側の方は海軍の用地になります。石川島のなかは水路で大きく4つくらいに区切られていて、海軍の用地にはドックのような入江ができていました。ここに造船所ができ、明治の後期には石川島造船所となるのです。
いうまでもなく「佃煮」で有名な佃島ですが、その起源も有名です。徳川家康が摂津佃村の漁師を呼び寄せて住まわせたのが起こりといわれますが、そもそもその理由は、本能寺の変にさかのぼります。
そのときわずかな供と堺に遊んでいた家康は、変の一報に大慌てで江戸に帰ろうとしますが、当時の情勢では簡単にはいきません。当然実力者のひとり家康も狙われます。そのとき、佃村の漁師達が船を出して家康を助けたのです。その恩に報いるため、江戸開府に際して、大阪は摂津佃村の漁師達を村ごと彼らの祭神住吉神社ごと呼び寄せ、江戸湾漁業の特権も与えたのです。
明治19年の東京実測図によると、佃島はほぼ四角でその角に住吉神社があり、さらに東に長方形の島が橋でつながって、南には真四角の「砲台」が築かれていました。
いまの佃島は、高層マンションが林立するなか、住吉神社を囲むように残るL字形水路と橋が、わずかに往時の島の形をしのばせてくれています。(2003/1 記)
(2011/01/16 転載再録)
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初めまして。
ご訪問ありがとうございました!
by なまけもの (2011-01-16 10:57)
はじめまして
訪問ありがとうございました。月島のお話、面白かったです。
by takenori (2011-01-16 16:17)
@なまけものさん、でんでんむしもごろごろしているのとか、ぼんやりしているのが大好きです。
左義長のこと書いている人が、多かったですが、これは実物を現地で見たことがありません。
by dendenmushi (2011-01-17 07:03)
@takenoriさん、新宿御苑のそばに無料の散策路があるとは、知りませんでした。
月島の歴史は、ときどき続きます。
by dendenmushi (2011-01-17 07:09)