412 出水崎=出水市荘(鹿児島県)岬も薮の中「憲法第25条」も薮の中で… [岬めぐり]
蕨島の東の膨らんだところに、出水崎という名がついている。遠目に見たこの島のやさしさはくわせもので、島の周囲はかなり高い崖が薮に覆われている。海岸を回ることはできず、薮の中をでこぼこ道が一本だけ走っているが、これが、自転車でも相当走りづらい。島のどこかに、養鶏場のようなものでもあるのか、そういう匂いが充満している。
その道を、どこまでいっても薮の中で岬は見えない。結局、行き止まりになる道を引き返して、生い茂る木々の間から、かろうじてそれらしい姿がわかるところを見つけた。
これも、帰ってきてから気がついてしまったのだが、干拓堤防の上を東へバックすれば、出水崎の全貌も見えたかも知れないのだが、後のまつり。こういうことは、自転車で走り回っているその最中には、なかなか気がつかないというのも不思議なことで、もっと時間を気にせず、もっとのんびりと岬をめぐらないといけないのかも知れないね。ところが、これが案外難しい。
岬の南側には小さな船溜まりがあって、そこに数戸の家が集まった集落がある。その堤防は、コンクリートではなくゴロタ石を集めて組み上げた、かなり古いものだ。堤防も、コンクリートのものはほとんどが公共工事によるものだろうが、こういうのは、地元の人々自らの勤労と費用の負担によってできたものが少なくないはずだ。石の堤防の向こうに見えるのは、チッソの分社化でまた新たな問題に直面する水俣の海岸である。
この船溜まりのそばにも、初めての熊本の岬めぐりでおなじみになった、赤いタイを抱えたエビスさんの祠があった。赤い細い鳥居が、なんともかわいらしい。不知火の海に面した共通の文化圏が、県境を越えてこの辺りまで及んでいるのは興味深い。
島津藩が始めた干拓も、戦争中は中断していたようだが、戦後また復活する。戦中戦後の話をするほど、年寄りじみているつもりはないが、その時代の空気も多少は吸ってきた身としては、こうしてツルが人間の暮らしのそばで穏やかに生息しているのを見ると、世の中の安定、豊かさ、人間の余裕といったものが感じられて、うれしい気分になる。
こんなことを今改めて書くと、変に思う人がほとんどだろう。だが、それにも理由がある。
戦後、日本人は未曾有の食料難に見舞われ、何とか食べて生き残ることがすべて、という大混乱時代に放り込まれ、食べられるものはなんでもとって食べてしまった。道端の草や池のカエルは当然、出水のツルも、宮島のシカも、どんどん食べられてしまった。当然、その数は激減した。そういう時代があった。
天然記念物の指定は昭和27年で、干拓の復活に伴いツルの渡来地のエリアもだんだん広がっていくが、蕨島が現在のように干拓地と二本の橋と長い堤防でつながるのは、昭和30年代の始め頃だった。
昨5月3日は、憲法記念日。毎年のように第9条を中心にして相反する護憲改憲両派の集会を“公平に”伝えるのが、ここのところ何年もニュースの常套手段になっていた。
だが、今年の憲法記念日では、改めて注目されることになったのが、第25条である。
第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
再び、ツルをとって食おうということにはならないまでも、「生存権」は決して盤石不動ではなかった。今にして思えば、出水崎からも見えている企業と行政と国と住民と被害者が複雑にもつれあったあの水俣でのことも、25条への理解の確立ができていれば、被害も最小限に食い止められ、同じようなことを繰り返さなくてもすんだかも知れない。
一度だけお会いしたことはあるが、残念ながらご縁はまったくできなかった内橋克人氏は、ものづくりがまだこの国を支えていた頃、『匠の時代』という代表作を残され、その後は大量生産・大量消費を前提とした日本経済の弱点を鋭く指摘してこられた。現在では数少ない、傾聴に値する意見を述べられる経済評論家である。ミーハーで弥次馬のでんでんむしは、その後も何かの会合や山の上ホテルのロビーや、鎌倉の御成通りを歩いておられるご夫妻をお見かけしたりしている。
メディアへの出番は決して多くないが、その常に冷静で物静かなお話しぶりと論点には、いつも敬服する。
昨夜のNHKのETV特集『いま憲法25条生存権を考える』、派遣村村長の活動家・湯浅誠氏との対論形式の番組では、「国民の生存する権利を守るために、政府が機能せずその役割を果たしてこなかった」という意味のことを話しておられた。湯浅氏の証言によれば、2000年頃から不安定な労働条件で生きることを余儀なくされた人、生存権を脅かされた人やワーキングプアが増え始めたたという。それは、新自由主義や市場原理主義や自己責任を声高に言って規制緩和など押し進めてきた頃とほぼ一致する。確かに、多くのことを“会社が永遠に発展する”という仮説に依存して、政府はあまり真剣に国民の将来のことを考えてこなかった。弱者を見る世間の目も、決してやさしくはなく、むしろ非難がましさが先に立つ、という風潮は変わらない。
終身雇用制が崩壊し世の中が大きな転換点にある今、すべてどこかからかやり直さないと、「生存権」はますます脅かされることになり、明日は我が身となりかねない。悲しいかな、日本はそういうところまできてしまった。それは、かなりの部分、早くから内橋氏が警鐘をならしてこられたことに起因する。そのことに、遅ればせながらであっても、政治は気がつかなければならない。
また、この番組では、「生存権」の草案を憲法条文に入れるべく奔走したのが、広島大学学長としてでんでんむしもその名に馴染んでいた森戸辰男であり、彼が基本的国民の権利として目指したこの精神が、長年の政権と官僚組織によって形骸化されてきつつあるとも指摘している。「生存権」は国民一人一人の固有の権利ではなく、官僚(厚生大臣)の裁量によるものだと、最高裁が朝日訴訟判決などで追認したままになって今日に至っていることを、歴史的な証言で明らかにした。つまり、最高裁は憲法の生存権を、きわめて限定的な抽象項目(つまりお題目)としてしか認めていないわけだ。
そのことにも、はなはだ無知であったと、今更のように相当なショックを受けた62年目の憲法記念日だった。
▼国土地理院 「地理院地図」
32度7分30.98秒 130度16分24.13秒
九州地方(2009/03/16 訪問)
その道を、どこまでいっても薮の中で岬は見えない。結局、行き止まりになる道を引き返して、生い茂る木々の間から、かろうじてそれらしい姿がわかるところを見つけた。
これも、帰ってきてから気がついてしまったのだが、干拓堤防の上を東へバックすれば、出水崎の全貌も見えたかも知れないのだが、後のまつり。こういうことは、自転車で走り回っているその最中には、なかなか気がつかないというのも不思議なことで、もっと時間を気にせず、もっとのんびりと岬をめぐらないといけないのかも知れないね。ところが、これが案外難しい。
岬の南側には小さな船溜まりがあって、そこに数戸の家が集まった集落がある。その堤防は、コンクリートではなくゴロタ石を集めて組み上げた、かなり古いものだ。堤防も、コンクリートのものはほとんどが公共工事によるものだろうが、こういうのは、地元の人々自らの勤労と費用の負担によってできたものが少なくないはずだ。石の堤防の向こうに見えるのは、チッソの分社化でまた新たな問題に直面する水俣の海岸である。
この船溜まりのそばにも、初めての熊本の岬めぐりでおなじみになった、赤いタイを抱えたエビスさんの祠があった。赤い細い鳥居が、なんともかわいらしい。不知火の海に面した共通の文化圏が、県境を越えてこの辺りまで及んでいるのは興味深い。
島津藩が始めた干拓も、戦争中は中断していたようだが、戦後また復活する。戦中戦後の話をするほど、年寄りじみているつもりはないが、その時代の空気も多少は吸ってきた身としては、こうしてツルが人間の暮らしのそばで穏やかに生息しているのを見ると、世の中の安定、豊かさ、人間の余裕といったものが感じられて、うれしい気分になる。
こんなことを今改めて書くと、変に思う人がほとんどだろう。だが、それにも理由がある。
戦後、日本人は未曾有の食料難に見舞われ、何とか食べて生き残ることがすべて、という大混乱時代に放り込まれ、食べられるものはなんでもとって食べてしまった。道端の草や池のカエルは当然、出水のツルも、宮島のシカも、どんどん食べられてしまった。当然、その数は激減した。そういう時代があった。
天然記念物の指定は昭和27年で、干拓の復活に伴いツルの渡来地のエリアもだんだん広がっていくが、蕨島が現在のように干拓地と二本の橋と長い堤防でつながるのは、昭和30年代の始め頃だった。
昨5月3日は、憲法記念日。毎年のように第9条を中心にして相反する護憲改憲両派の集会を“公平に”伝えるのが、ここのところ何年もニュースの常套手段になっていた。
だが、今年の憲法記念日では、改めて注目されることになったのが、第25条である。
第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
再び、ツルをとって食おうということにはならないまでも、「生存権」は決して盤石不動ではなかった。今にして思えば、出水崎からも見えている企業と行政と国と住民と被害者が複雑にもつれあったあの水俣でのことも、25条への理解の確立ができていれば、被害も最小限に食い止められ、同じようなことを繰り返さなくてもすんだかも知れない。
一度だけお会いしたことはあるが、残念ながらご縁はまったくできなかった内橋克人氏は、ものづくりがまだこの国を支えていた頃、『匠の時代』という代表作を残され、その後は大量生産・大量消費を前提とした日本経済の弱点を鋭く指摘してこられた。現在では数少ない、傾聴に値する意見を述べられる経済評論家である。ミーハーで弥次馬のでんでんむしは、その後も何かの会合や山の上ホテルのロビーや、鎌倉の御成通りを歩いておられるご夫妻をお見かけしたりしている。
メディアへの出番は決して多くないが、その常に冷静で物静かなお話しぶりと論点には、いつも敬服する。
昨夜のNHKのETV特集『いま憲法25条生存権を考える』、派遣村村長の活動家・湯浅誠氏との対論形式の番組では、「国民の生存する権利を守るために、政府が機能せずその役割を果たしてこなかった」という意味のことを話しておられた。湯浅氏の証言によれば、2000年頃から不安定な労働条件で生きることを余儀なくされた人、生存権を脅かされた人やワーキングプアが増え始めたたという。それは、新自由主義や市場原理主義や自己責任を声高に言って規制緩和など押し進めてきた頃とほぼ一致する。確かに、多くのことを“会社が永遠に発展する”という仮説に依存して、政府はあまり真剣に国民の将来のことを考えてこなかった。弱者を見る世間の目も、決してやさしくはなく、むしろ非難がましさが先に立つ、という風潮は変わらない。
終身雇用制が崩壊し世の中が大きな転換点にある今、すべてどこかからかやり直さないと、「生存権」はますます脅かされることになり、明日は我が身となりかねない。悲しいかな、日本はそういうところまできてしまった。それは、かなりの部分、早くから内橋氏が警鐘をならしてこられたことに起因する。そのことに、遅ればせながらであっても、政治は気がつかなければならない。
また、この番組では、「生存権」の草案を憲法条文に入れるべく奔走したのが、広島大学学長としてでんでんむしもその名に馴染んでいた森戸辰男であり、彼が基本的国民の権利として目指したこの精神が、長年の政権と官僚組織によって形骸化されてきつつあるとも指摘している。「生存権」は国民一人一人の固有の権利ではなく、官僚(厚生大臣)の裁量によるものだと、最高裁が朝日訴訟判決などで追認したままになって今日に至っていることを、歴史的な証言で明らかにした。つまり、最高裁は憲法の生存権を、きわめて限定的な抽象項目(つまりお題目)としてしか認めていないわけだ。
そのことにも、はなはだ無知であったと、今更のように相当なショックを受けた62年目の憲法記念日だった。
▼国土地理院 「地理院地図」
32度7分30.98秒 130度16分24.13秒
九州地方(2009/03/16 訪問)
タグ:鹿児島県
久しぶりの不知火、水俣ですな。拙者、鹿児島県(というよりも九州)は未踏の地ゆえシラヌイことだらけなのでござるが、にもかかわらず記憶と思考を刺激する地名や事物が多いのは歴史の厚さというものでせう。以下の記事を鶴首して待ち申す。
内橋さんは安心・信頼して聴くことのできる数少ない論客で、まことにええ。こういう先見性と良識を兼ね備えた人物は、顔と声のでかい輩にはいないですからなあ。
by dotenoueno-okura (2009-05-04 08:04)
@水俣は今回は遠くに見えただけですが、あそこの場合は水俣=チッソという典型的企業城下町でした。そして、そのいいところもたくさんあったのでしょうが、悪いところの方がより典型的に出てしまった、という気がしますね。
今回の出水でも、こんなことが…。
歴史の厚さは、悪いことよくないことは時間が風化させてくれる、という利点によって浄化されていく面もあるような気がします。
by dendenmushi (2009-05-06 07:07)