333 館ヶ崎=宮城郡松島町磯崎(宮城県)地図からはもう名前が消えてしまった岬だが [岬めぐり]
この「館ヶ崎」は特別である。何が特別かというと、でんでんむしの岬めぐりでは、取りあげる岬・崎・鼻を原則として地図にその名が明記してあるものとしているが、これは地図にはその名が記されていないからである。
それなのになぜ取りあげたかというと、たまたまこの岬が館ヶ崎と呼ばれているという確証が得られたからである。
銭神から小さな橋を渡って、西へ向かうと、真っすぐな道路の両側に、それほど大きな木がない緑地帯のようなところが帯状に続いている。
ここが、昭和61年にできた手樽海浜公園という。手樽という名前がついているけれど、海岸の西半分以上は松島町の磯崎にあたり、海浜公園のいちばん西の端に、楯ヶ崎はある。
休日でたくさんの人が釣りをしたり、バーベキュの準備のようなことをしているグループがいたりする。近頃では、女性の釣り人もすっかり定着したようだ。
銭神崎の付け根のところから見ても、楯ヶ崎の白い崖はよく目立っている。
ここから南西の方角が、福浦島や九ノ島などが連なるいわゆる松島群島になる。500メートルも続くほぼ直線の波打ち際は砂浜ではなく、ごろごろと大きな黒い石が敷き詰めてある、というよりただ並べただけだが…。この黒い石、どこかで見たと思ったら、天王崎付近にもこんな黒い石があった。どうやら、この辺で採れる松島石というのは、これのことか?
天王崎の黒い石は、自然に海岸にあったものらしかったが、ここのはそうではない。どこかで採石したものを、護岸を兼ねて敷いたものだ。なぜなら、この公園の北側一帯が干拓地であり、この海浜公園はその締切り堤防の役目をさせるために人工的につくられた海岸だからである。
手樽浦という結構広い入江があったのを、全面的に大規模な国営干拓事業で農地にしたのは、昭和43年のことだというから、それほど大昔の話ではない。
この付近でもそれ以前から小規模な干拓、水田開発は行なわれていた。伊達政宗は、女川湾の干拓を考えていたといわれるが、封建領主にとって、新田開発は裏金づくりよりもはるかに堂々とした重要な藩財政対策だったし、この松島湾のように入り江がたくさんあれば、それを干拓するのも比較的容易だったろう。女川湾の干拓くらい、やればできたかもしれないから、そうとっぴな話ではないのだ。
岬が実用的な意味で役目を果たすことがあるとすれば、自然の防波堤だろうが、もうひとつ海上の船から山立てという方法で位置を割り出すときの目印になる。同じ理屈で、どこからどこまでを埋め立てるかを決めるときにも、岬から線を引くことがままある。
この手樽の干拓も、西は楯ヶ崎を始点に線が引かれたようだ。ただ、銭神側はいちおう集落と港があるので、これをつぶす訳にはいかない。そこで、こちらは銭神崎ではなく集落の西の中ノ島の岩山で結んだ。
そして、その干拓地ができたとき、楯ヶ崎は岬でなくなった。それでも名前ぐらい残しておいてやればいいものを、国土地理院はさっぱりと消し去ってしまった。おそらくはそんなところだろう。
松島町の資料には、その楯ヶ崎の名をちゃんと記した図面があったので、それを証拠にしておこう。
これは、松島町が平成17年に策定し公表した「松島町マリンプラン21計画書」なる資料にあったもので、町の総合的な滞在型観光地づくりをプランしたものらしい。そして、干拓で埋め立てられる前の地形も彷彿とさせる航空写真も、そのなかにあった。楯ヶ崎も、細長く伸びた凸凹の多い半島の先端だったことが、これでよくわかる。
この計画にうたわれていた海浜公園北側の「遊YOU松島親水公園」は、これで完成したのかしないのか、よくわからないが、確かに一度は着手し整備されたらしい形跡がある。しかし、園路は草に埋もれベンチは朽ちかけており、もう荒れ放題といったほうが適切なありさまだった。
干拓地の中の真っすぐな水路に沿った道を歩いて、手樽の駅に向かう途中で、コンバインからトラックに収穫した籾を移している光景に遭遇した。
この後ろの山と崖が描く線が、干拓前の海岸線だったのだろう。とすると、そこらにはもっとたくさんの岬があったと考えても、不自然ではない。
手樽の駅も、もちろんつきの無人駅で、仙石線の駅のうちでも、最も乗降客が少ないのだという。干拓前にはここも海の中を線路が走っているような状況に近かったらしい。手樽と高城町の中間は、田圃の中を線路だけが走っているので、まさしく干拓前には入り江の間を線路が横断していたことになる。
なお、たまたまこの干拓地で農業をやっている人のページ『おいらの田んぼ』は海だった!をみつけたので、紹介しておくことにしよう。
▼国土地理院 「地理院地図」
38度22分44.82秒 141度5分26.78秒
東北地方(2008/10/13 訪問)
それなのになぜ取りあげたかというと、たまたまこの岬が館ヶ崎と呼ばれているという確証が得られたからである。
銭神から小さな橋を渡って、西へ向かうと、真っすぐな道路の両側に、それほど大きな木がない緑地帯のようなところが帯状に続いている。
ここが、昭和61年にできた手樽海浜公園という。手樽という名前がついているけれど、海岸の西半分以上は松島町の磯崎にあたり、海浜公園のいちばん西の端に、楯ヶ崎はある。
休日でたくさんの人が釣りをしたり、バーベキュの準備のようなことをしているグループがいたりする。近頃では、女性の釣り人もすっかり定着したようだ。
銭神崎の付け根のところから見ても、楯ヶ崎の白い崖はよく目立っている。
ここから南西の方角が、福浦島や九ノ島などが連なるいわゆる松島群島になる。500メートルも続くほぼ直線の波打ち際は砂浜ではなく、ごろごろと大きな黒い石が敷き詰めてある、というよりただ並べただけだが…。この黒い石、どこかで見たと思ったら、天王崎付近にもこんな黒い石があった。どうやら、この辺で採れる松島石というのは、これのことか?
天王崎の黒い石は、自然に海岸にあったものらしかったが、ここのはそうではない。どこかで採石したものを、護岸を兼ねて敷いたものだ。なぜなら、この公園の北側一帯が干拓地であり、この海浜公園はその締切り堤防の役目をさせるために人工的につくられた海岸だからである。
手樽浦という結構広い入江があったのを、全面的に大規模な国営干拓事業で農地にしたのは、昭和43年のことだというから、それほど大昔の話ではない。
この付近でもそれ以前から小規模な干拓、水田開発は行なわれていた。伊達政宗は、女川湾の干拓を考えていたといわれるが、封建領主にとって、新田開発は裏金づくりよりもはるかに堂々とした重要な藩財政対策だったし、この松島湾のように入り江がたくさんあれば、それを干拓するのも比較的容易だったろう。女川湾の干拓くらい、やればできたかもしれないから、そうとっぴな話ではないのだ。
岬が実用的な意味で役目を果たすことがあるとすれば、自然の防波堤だろうが、もうひとつ海上の船から山立てという方法で位置を割り出すときの目印になる。同じ理屈で、どこからどこまでを埋め立てるかを決めるときにも、岬から線を引くことがままある。
この手樽の干拓も、西は楯ヶ崎を始点に線が引かれたようだ。ただ、銭神側はいちおう集落と港があるので、これをつぶす訳にはいかない。そこで、こちらは銭神崎ではなく集落の西の中ノ島の岩山で結んだ。
そして、その干拓地ができたとき、楯ヶ崎は岬でなくなった。それでも名前ぐらい残しておいてやればいいものを、国土地理院はさっぱりと消し去ってしまった。おそらくはそんなところだろう。
松島町の資料には、その楯ヶ崎の名をちゃんと記した図面があったので、それを証拠にしておこう。
これは、松島町が平成17年に策定し公表した「松島町マリンプラン21計画書」なる資料にあったもので、町の総合的な滞在型観光地づくりをプランしたものらしい。そして、干拓で埋め立てられる前の地形も彷彿とさせる航空写真も、そのなかにあった。楯ヶ崎も、細長く伸びた凸凹の多い半島の先端だったことが、これでよくわかる。
この計画にうたわれていた海浜公園北側の「遊YOU松島親水公園」は、これで完成したのかしないのか、よくわからないが、確かに一度は着手し整備されたらしい形跡がある。しかし、園路は草に埋もれベンチは朽ちかけており、もう荒れ放題といったほうが適切なありさまだった。
干拓地の中の真っすぐな水路に沿った道を歩いて、手樽の駅に向かう途中で、コンバインからトラックに収穫した籾を移している光景に遭遇した。
この後ろの山と崖が描く線が、干拓前の海岸線だったのだろう。とすると、そこらにはもっとたくさんの岬があったと考えても、不自然ではない。
手樽の駅も、もちろんつきの無人駅で、仙石線の駅のうちでも、最も乗降客が少ないのだという。干拓前にはここも海の中を線路が走っているような状況に近かったらしい。手樽と高城町の中間は、田圃の中を線路だけが走っているので、まさしく干拓前には入り江の間を線路が横断していたことになる。
なお、たまたまこの干拓地で農業をやっている人のページ『おいらの田んぼ』は海だった!をみつけたので、紹介しておくことにしよう。
▼国土地理院 「地理院地図」
38度22分44.82秒 141度5分26.78秒
東北地方(2008/10/13 訪問)
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