283 御立岬=葦北郡芦北町大字田浦町(熊本県)景行天皇の熊襲征伐と“開発”された岬 [岬めぐり]
岬の南側周辺の海岸線は、花崗岩の切石で覆われた渚が続き、広い緑の園地内にはゴーカート場のようなものや駐車場ができている。どうやらここも、埋立てでできたものらしい。植えられた松が、まだいかにも頼りないので、最近のことなのだろうか。
岬の先端には、神社が祀られている。元からあったのが、近年修復されたのだろう。瓦は新しく黒く光っているし、寄進された石灯籠も白い。その前も広く埋め立てられているので、ぼんやりと歩いていると、岬の先端という感じはしない。
実は、このコースは逆で、実際に歩いたときにはまず自動車道路なりに上っていき、岬の上から森の中を抜けてこの神社のところまで降りてきたのだ。
この岬を含む一帯の山は、広大な自然に人の手が加えられ、計画され、管理された御立岬公園となっており、温泉施設から芝スキー場やバンガローまで、さまざまな施設ができるのだ。いちいち目くじら立てるのもめんどくさいので、横目で通り過ぎたが、それもどこか厚労省関係の事業団か外郭団体かなにかの仕業であるらしい。そのことは、この岬が“開発”された記念として誇らしげに立ち、役人の名前などが麗々しく刻まれた、でっかい自然石の石碑がやって来る人を見下ろしていることで知れる。
立派な別荘のようなバンガローが幾棟も点在するなか、岬の上から海岸近くまで一気に降りることができる巨大なすべり台のようなものまであったりして、数人のおじさんが、誰もやってこない客を待っているような雰囲気でくつろいでいた。
木の間隠れにその下の海岸を見ると、白さが目を射るような人工砂浜があり、海水浴場になっている。
向こうに見えるのは、天草の島々で、ここから5キロちょっとしか離れていない。
比較的近年のことらしいので、それなりに「自然破壊を最小限度に留めながら“開発”してみました」とでもいうような雰囲気だけは、なんとなく伝わってくる。よく、岬の上が公園や展望台になっていることは多いが、それにしても、岬まで“開発”される対象になるとは思わなかった。
でんでんむしは、必ずしも“絶対自然保護派”というわけでもないし、自然のままに放ったらかしておくのがいちばんいいとも思わないので、適度な開発は必要だろうと思っている。ここが、そうなのかどうかは、よくわからないが、税金をつぎ込んだ揚げ句に廃虚と化したり、外資に二束三文で買い取られてしまうようなことには、ならないことを願う。
そういえば、今回はパスせざるを得なかったが、同じ芦北町の鶴木山にも、海浜公園があるらしいんだけど…。
開発による埋立てが終わる境界部分にあたる、岬の付け根には、開発以前から続いている太田という集落がある。その浜辺には祠があり、枝にたくさんの実をつけた古い大きな木(古墳のところにあったのと同じ木らしいのだが、帰ってきて植物図鑑を調べてみても、その名前がわからない)が、木陰をつくっているので一休み。
みると、そこから出ている防波堤はかなりガタのきた石組みで、その先端にある石碑を読んでみると、この防波堤をつくるために、何銭(何円だったかな? 記憶があいまい)というお金を出し合った人の名が刻まれていた。公共事業費がなかった時代、そういう施設の費用はほとんど受益者負担だったのであろう。
ところで、この岬の「御立岬」という名前についてである。最初はそれについては無視していたのだが、この項目だけ前後の多項目と比べて何倍ものアクセスがある。これはいったいなんだろう? 調べてみると、この項目についてその名前からリンクがあり、とくにyahoo!はどでは1ページ目の上のほうにあげてあるので、それを辿ってこられる人も多いらしいことがわかった。そうであれば、なぜ「御立岬」なのか、誰が「立った」のかにも、触れておくほうが親切というものである。
これについては、ほとんどのページで「かつて景行天皇が熊襲(くまそ)征伐に訪れたとき、この地で「お立ち」になったと言い伝えがある歴史的な場所」とか、孫引きの孫引きで大同小異ながら、判で押したように書いてある。それは、『日本書紀』の記述によるものであろうが、実をいうと景行天皇はその実在にも疑問がもたれているうえに、『古事記』のほうには、ヤマトタケルの九州征伐は載っているのに景行天皇のは記述がないことも、不安定要素となっている。熊襲征伐という名目で九州へやってきたのは景行12(82)年のことになる。実にこの遠征には、7年もかかっている。在位60年という天皇であるから、いろんなことができそうだが、天皇自身ががそんなに長い間留守にしていて差し支えないのだろうか。
また、そもそも「お立ち」とはいったいどのような行動を指しているのであろうか。
ほとんどのページでは「岬に御立ちになられた」とか「この地で「お立ち」になったと言い伝え」があるという書き方をしている。
自分でみたわけではないからどこかに書いてあるのをもってくるとそうなるが、では景行さんはなんでここに立ったのだろう。「う〜む、よい景色じゃのう」ということなのだろうか。
熊本もこの付近には、景行伝説はあちこちにあるので、これもそのひとつなのだが、当時は今のように「開発された岬」ではなかったはずだから、景色を眺めるために岬に立ったとは考えにくい。
しかも、ここへ来たときは熊襲征伐という目的は既に達成された後になるはずで、それから長崎・福岡を経由して帰路につく。だから、書くならばやはり、「熊襲征伐を終え、都への帰途ここから船でお立ち(発ち)になった」というほうが、納得はできそうだ、と思うのだがいかがなものでありましょうや。もちろん、景行さんが実在し、九州遠征もあったと仮定して…ですがね。
もっとも、この景行遠征から8年後には。熊襲は再び背くわけで、景行さんの征伐はなんだったの?という疑問もわく。そして、今度はヤマトタケルを派遣し、彼の業績はいろいろ流布されることになるが、この遠征に伴う伝説は、この地方には残っていない。(2009/07/20『海の日』に補記)
▼国土地理院 「地理院地図」
32度21分37.20秒 130度29分13.67秒
九州地方(2008/04/20 訪問)
地図で見ると、まさに最果て。ここからの夕日はいいでしょうなあ。
海から屹立した先端に神社(灯台・祠)があってなるほど岬らしい岬──全国に観音崎が多いことからイメージはありますが、あらためて「いかにも岬らしい一流岬の条件」を整理していただけませんか。
ここは新旧が混淆した岬ですね。けれども「自然破壊は最小限にとどめながら開発しました」と感じさせるところがうさんくさい。西武(国土計画)グループでも当地流山でも、それを免罪符のように掲げながら“開発”している。これって、客観的な基準があやふやな点において「計画はきびしく見直しつつ必要な道路はつくる」って論法に似ているもの。
by knaito57 (2008-07-07 07:31)
@やはり人間が自然と付き合っていくというのは、基本的には完全に破壊なしということはあり得ないんですよね。取り付け道路一本つけるだけでも、充分な自然破壊なのだから。
またしても、knaito57さんからのリクエストですが、「一流岬の条件」は、なかなか難しいですね。なにか、それに代わるアプローチの方法がないかどうか、考えてはいるのですが…。
by dendenmushi (2008-07-08 10:27)