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番外:霞ヶ浦水郷地域=香取鹿島(茨城県・千葉県)どうでもよいことども [番外]

 今回の岬めぐり霞ヶ浦編ほど、あれこれ迷って計画がまとまらなかったことはなかった。そもそも、霞ヶ浦にも岬があったということを、明確に意識するのが遅かった。これまで何度かこの付近に来ていながら、岬を目指してきたのは、これが初めてであった、ということからしてマヌケなのだが、この前、ほんのできごころで土浦から自転車で稻荷ノ鼻だけへ行ったというのも、およそ効率的なめぐり方とはいえなかった。
 霞ヶ浦の岬は南東部に集中しているので、土浦からのアプローチは、南を行くにせよ、北廻りで玉造経由で行くにしろ、交通が便利とはいえない。東京からだと八重洲南口から鹿島神宮や江戸崎へ行く直通バスがあり、やはりこれが便利であるし、JR成田線でという足もある。
 ところが、そのコース取りと計画が、なかなかすんなりとはいかず、結局あれこれあった末に、三回に分けて8つの岬をめぐることになってしまった。江戸崎からが岬にはいちばん近いのだが、ここからだとするとバスがないので、全部歩いて行かないといけない。鹿島神宮からは北浦方面はともかく、稲敷市とつなぐには不便で、レンタサイクルのあるのは佐原だけだ。利根川と横利根川と常陸利根川で区切られた、茨城県と千葉県の県境には、電車とバスという公共交通機関で見る限り、男と女の間にも匹敵するほどの深い溝があるようなのだ。
 Yahoo!の地図帳が改良されていて、衛星写真と同期するようになった。これが、なかなかきれいでGoogleよりも鮮明である。薄くYahoo!JAPANの文字が透かしのように入っているが、個人で使う分には充分。
 これで岬の位置と周辺の地形をまとめてみると、こんな感じになる。つくづくこれを眺めれば、8つの岬がこんなふうに残ったのも、単なる偶然ではないと思える。
 
 俗に「霞ヶ浦」と呼称している湖沼は、お役所的には「西浦」というらしい。そして、この西浦に北浦・外浪逆浦・与田浦、さらには、利根川・常陸利根川・新利根川・横利根川・鰐川などをも包括した一帯の複雑に入り組んでつながっている水系を、「霞ヶ浦」と総称している。したがって、“霞ヶ浦・北浦・利根川”というような表記は、俗世間の並列法なのだが、そんなことはまあどうでもよいことだ。
 どうでもよいことついでにいうと、関東平野の大部分と同じく、古くは古東京湾の海進と後退の結果生じた地形だが、現在のような水域ができるにあたっては、人間の加えた操作が、複雑に影響している。
 当初は海水域だったこのあたりが、河川の堆積で海と隔てられ、汽水湖となっていったのも、人が住み着いて暮らしを営むようになるのも古くからのことであったが、本格的に人の手が入るのは江戸時代。“利根川東遷”と呼ばれている大事業で、荒川を経て江戸湾に注いでいた利根川を、古い鬼怒川に流すようにした河川改修工事は、水害対策として必要に迫られた結果だった。同時に利根川から江戸川を経由して江戸と往来するという水運が花開くことになり、忠敬が養子に入った伊能家の事業が、佐原のような場所で成り立ったというのも、ひとえにそれに帰する。だが、当時はまだ現在のように、利根川の主流が確定していたわけではなく、さまざまな水路が縦横に走っていたと推測される。
 明治期の治水対策で堤防が築かれ、水門が整備され、徐々にそれも確定していったものだろう。明治には、利根川にも霞ヶ浦にも蒸気船が就航しており、銚子を経て東京へ行く航路もあったというから,それも驚きである。昭和50年代ごろまで継続して計画されてきた干拓が、盛んに進み始めたのもこの頃からであった。
 戦後は、洪水の対策として浚渫事業が始まると、それの影響で塩害が起こり、その対策として水門での締め切りが行なわれ、その結果,この付近の淡水化が固定される。これも、なんだか諫早のことなどを思い浮かべてしまう。
 高度成長期にはいると、水質汚濁など環境問題とその対策に追われるようになり、一方では筑波研究学園都市や臨海工業地帯などもからんで、水資源開発という視点で霞ヶ浦も改めてクローズアップされてきた。そのため、利根川から導水管を引いて、霞ヶ浦に水を送り込むといったことまで行なわれているのだ。

 …ざっと簡単になぞってみても、こんなふうにこの地域の辿ってきた道筋は、その水路のように入り組んでいるので、そんなことも影響して昔からこのあたりへの関心があったのかも知れない。
 広島出身のでんでんむしが、初めてこの付近へやって来たのは、1960(昭和35)年のことである。政治状況も騒然としていたこの時代、どいうわけか潮来のアヤメを見に行ったことがあった。その当時は、蒸気船はすでになく、八重洲南口からの直通バスはまだなく、かなり不便な場所であり、その頃から人気になり始めていたバスツアーで行った。
 なぜだかよくよく考えてみると、いまにして“そうだったのか”と思うことがある。あの頃、潮来と水郷は売り出しのハシリだったのだ。
 「昭和の名曲」というフレーズをよく聞くこの頃だが、昭和31年から35年という一時代を切り取ってみると、それはたとえば順不同でこんな感じ。
 「ここに幸あり」「無法松の一生」「夜霧の第二国道」「港町十三番地」「潮来笠」「船方さんよ」「夕焼けとんび」「あン時ゃどしゃ降り」「逢いたいなァあの人に 」「東京のバスガール」「一本刀土俵入り」「古城」「お月さん今晩は」「柿の木坂の家」「東京ナイトクラブ」「どうせ拾った恋だもの」「踊子」「若いお巡りさん 」「こいさんのラブコール」「東京の人よさようなら」「月の法善寺横丁」「有楽町で逢いましょう」「潮来花嫁さん」「哀愁の街に霧が降る」「十代の恋よさようなら」「南国土佐を後にして」「愛ちゃんはお嫁に」「喜びも悲しみも幾歳月」「星はなんでも知っている」「大利根無情」「思い出さん今日は」「東京だよおっ母さん」「リンゴ村から」「からたち日記」「哀愁列車」「チャンチキおけさ」「青春サイクリング」「誰よりも君を愛す」……。
 これも相当どうでもよいことで、こんなにたくさん並べる必要もないのだが、並べてみるとこれはやっぱりタイヘンなものである。歌謡史的にいうと、ちょうど「村」や「ふるさと」から「東京」や「都会」へと、キーワードが切り替わっていく時期にも当たっている。先ごろ、有楽町に新しい商業施設ができて、若い人で賑わっているが、その名前からフランク永井の歌を連想できる人はいないのだろう。都会派ムード歌謡というジャンルが定着したのもこの頃だった。
 が、ここで問題は、「潮来笠」と「潮来花嫁さん」である。これがどちらも昭和35年のヒット曲であり、実はそれがきっかけとなって、潮来と水郷が脚光を浴びてきたといえる。“水郷”というキャッチが、独特の魅力を持って日本全国に広まり、潮来が観光地として生きる水路を見つけ出すことに至ったのは、この時からといってもいいのだろう。
 いわば、ご当地ソングと観光開発が連動したという例なのだが、この頃はまだいまのようにアザトイ仕掛け屋がいたわけでもなく、歌が流行って地元がそれに便乗したという、きわめて素朴で自然発生的なものだったろう。そうそう、さらにどうでもよいことつながりで、「有楽町で逢いましょう」も、いまはなき“有楽町そごう”開店時のPRソングだったという説が、広く流布しているが、それはどうも違うらしい。デーパート開店時のコピーのほうが先にあって、これは使えるとそれに目をつけた作詞家がいた、というのが真相らしい。
 いまはもちろんシーズンではないので、以前に行ったときの写真でも貼り付けておこう。

 水辺は人をやさしくする。霞ヶ浦というこの一帯の広大な水辺を、もっとうまく利用できるのではないか。
 それは、観光開発といった儲からなければやめるといった次元ではなく、いくらか考えようがあるような気がする。国土交通省も自治体も、もう少し知恵を働かせてもらいたいものだ。
 地図好きのでんでんむしにとっては、伊能忠敬の記念館がある佐原は聖地でもあり、これまで三度も訪れている。伊能忠敬には、新聞社がウォークラリーとかいってイベントに多くの中高年を集めたりするようになるずっと前、若い頃からひそかに崇敬の念をもってきたつもりである。

 伊能図では、いわば地元でもあるこの霞ヶ浦周辺は、どのように描かれているだろうか。当然の疑問であるが、遅ればせに気がついて、これと現在の地図を比較してみようと思い、中図を引っ張り出して調べてみた。
 ところが、まったく意外なことに、伊能中図では利根川の河口付近が描かれてはいるが、霞ヶ浦も北浦も描かれていない。これには気がつかなかったが、鹿島灘の海岸線の内側は、空白なのだ。(伊能図を見たことがない人のための注釈:伊能図は基本的に沿海図で、列島の輪郭を描き切ることに重きが置かれているため、主な街道や山や湖は描いてあるが、内陸部は空白なのです。ちなみに「中図」とは、現在の縮尺で言うとだいたい20万分の1くらいです。)
 八郎潟や琵琶湖などほかの湖沼はちゃんと描いているのに、これはいったいどうしたことだろう。葦原は測量隊の踏み入ることさえも拒否したのだろうか。
 それはともかく、彼が隠居してから始めたこの大事業の、苦労のほんの数万分の一でも味わい感じ取ることができれば、それもまた自分自身にとっては遍路であり、行でもある「岬めぐり」に付け加えるひとつの意義になるのではないかと、己に言い聞かせるようにして、歩いている。

 まぁ、そんなこんなの霞ヶ浦周辺、「岬めぐり」は後半へ続く…。

▼国土地理院 「地理院地図」
35度56分36.77秒 140度29分50.22秒
193番外かすみがうら-93.jpg
dendenmushi.gif関東地方(2007/11/23-24 訪問)

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きた!みた!印(6)  コメント(2)  トラックバック(0) 
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コメント 2

knaito57

よくぞのオンパレード! 名曲というには?がつくしゃうのない歌も多いけれど、青春期に結びつく懐かしいメロディーにはちがいない。経済成長、集団就職、望郷……まさに「三丁目の夕日」の時代ですね。♪潮来の伊太郎 ♪ぎっちらこオ ともにこんな時代背景でヒットしたんですね。
江戸川土手を歩く私は利根川東遷と舟運に関心があり、霞ヶ浦と伊能忠敬についてひととおりの知識はあるつもりでしたが、この記事で「そうだったのか」と思い当たることも多くたいへん勉強になりました。
by knaito57 (2007-12-13 09:12) 

dendenmushi

@このオンパレードはね、名曲だからという訳じゃないんですよ。31年から35年までの5年間をみるためで、だから「しゃうのない歌」も入っています。でもだがしかし、それらも含めて、なにか想いがあふれてくようじゃありませんか。
 江戸川と思わぬところでつながりました。伊能図について、気がついたことがあって、ちょっと補筆しています。
by dendenmushi (2007-12-15 08:22) 

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