194 爪木ノ鼻=鹿嶋市大字爪木(茨城県)アサザにその願いを込めて [岬めぐり]
前日に続いての、“日帰り岬めぐり”となった。まず目指すは北浦の爪木ノ鼻である。
東京駅八重洲側は目下大工事が続いている最中で、中距離バスが発着する南口のバス乗り場のあたりもいかにも雑然としている。ここから、鹿島神宮駅行きの始発バスに乗る。
この路線は、結構人気があるらしく、本数も他の路線に比べても多い。
早朝6時半始発のバスがくる前に、40人もの行列ができた。これも、JRの鹿島線がまったくのローカルになってしまって、ダイヤが不便になっているからだろう。いや、バスの方に客を取られたから、JRの方が…? “トリタマパラドックス”で、どっちが原因でどっちが結果なのかわからないが、ここもとりあえずは“需要と供給の関係”で割り切るしかないのだろう。
そんなことを思いながら行列に並んでいる間にも、山形から、福井から、八戸から、次々と大型バスが着いて客と荷物を降ろしていく。夜行の長距離バスも、そんなに乗客が多そうではないが、まだ廃止にならないところをみると、今のところはそれなりの需要があるらしい。
問題は、世の中がすべて、“需要と供給の関係”だけでくるくるとめまぐるしく回っていて、それでホントにいいのだろうか、ということである。
このウサギにしたってそうだよなあ、これも需要があるから供給しただけということで、いろいろなことが正当化され、見過ごされていった。この一年を騒がせた偽装事件と同じで、そういう結果のひとつにすぎないのではないだろうか。
“自己責任”という言葉は、のどにがさついてひっかかる。そういう宣伝に釣られて金を払った客だけが悪いのだろうか。そうだとしても、こういうことを助長したのは、宣伝広告である。責任をいうなら、その宣伝のお先棒を担いで虚像を売りつけることに荷担した広告屋さんや、それを垂れ流して儲けてきたテレビ屋さんに、こうした問題の責任はないのだろうか。
日本の玄関の真ん前に、人を小馬鹿にしたような顔でまだ平然としてすましている“駅前留学”のウサギに見下ろされながら、バスがやってくるのを待つうちに、とりとめなくへそまがりの思いが広がってしまう。
このバスも初めてではない。東関東自動車道を走り抜け、潮来ICから水郷道路に出て、鹿嶋市の工場地帯や市街地を経て、少し遠回りしながら鹿島神宮駅へ向かうが、ほとんどの客はその間に降りてしまい、最後まで乗っていたのは2人だけだった。
爪木ノ鼻までは、駅前からタクシー。もちろん歩いて行けない距離ではないが、後の行程を考えると、少しでも早めに進んでおきたい。乗るときに「すみません。細かいものがないんですが、かまいませんか?」というと、「銀行も開いてねぇしなあ」と不機嫌そうに発車。
北浦の南に、東を向いて丸く突き出しているのが、爪木ノ鼻である。鹿島神宮の森が黒々と横たわる以外は、ひたすら平たいところに砂利道堤防に囲まれた田畑が広がっている。
ここも、真っ直ぐな農道で区画されているところをみると、干拓が行なわれたところだろう。その証拠には、内側にはくねくねした細い道が神社とお寺をもつ集落の間をうねっており、それを新田が取り巻くようにおし包んでいる。
岬は、その外周堤防の突端に、小さな葦の茂みを、ちょこんと残している。
とすると…島だったのか? いや、「鼻」の名を残しているということは、もともとここは地つながりの葦原で集落と接していたところで、それが干拓でいまのような形になった、と考えるのが正解なのだろう。
北浦でも、アサザ基金の活動は続いている。鹿島線の鉄橋に近いところには、幼稚園や小学校や職域などそれぞれのグループの立て札がほほえましい。
へそまがりは、ボランティアという言葉も好きではない。それが施政者の不作為あるいは無為無策の都合のよい隠れ蓑に利用されていることも、少なくないのではないかと思うからである。
人間の素朴な願いは、尊いものである。それが、需要と供給のメカニズムすなわち儲かるか儲からないかとは無縁のところで,うまく生かされ、それが世の中の大きな柱になるようなことは、どうしても望めないのだろうか。
▼国土地理院 「地理院地図」
35度58分10.66秒 140度35分44.44秒
関東地方(2007/11/24 訪問)
東京駅八重洲側は目下大工事が続いている最中で、中距離バスが発着する南口のバス乗り場のあたりもいかにも雑然としている。ここから、鹿島神宮駅行きの始発バスに乗る。
この路線は、結構人気があるらしく、本数も他の路線に比べても多い。
早朝6時半始発のバスがくる前に、40人もの行列ができた。これも、JRの鹿島線がまったくのローカルになってしまって、ダイヤが不便になっているからだろう。いや、バスの方に客を取られたから、JRの方が…? “トリタマパラドックス”で、どっちが原因でどっちが結果なのかわからないが、ここもとりあえずは“需要と供給の関係”で割り切るしかないのだろう。
そんなことを思いながら行列に並んでいる間にも、山形から、福井から、八戸から、次々と大型バスが着いて客と荷物を降ろしていく。夜行の長距離バスも、そんなに乗客が多そうではないが、まだ廃止にならないところをみると、今のところはそれなりの需要があるらしい。
問題は、世の中がすべて、“需要と供給の関係”だけでくるくるとめまぐるしく回っていて、それでホントにいいのだろうか、ということである。
このウサギにしたってそうだよなあ、これも需要があるから供給しただけということで、いろいろなことが正当化され、見過ごされていった。この一年を騒がせた偽装事件と同じで、そういう結果のひとつにすぎないのではないだろうか。
“自己責任”という言葉は、のどにがさついてひっかかる。そういう宣伝に釣られて金を払った客だけが悪いのだろうか。そうだとしても、こういうことを助長したのは、宣伝広告である。責任をいうなら、その宣伝のお先棒を担いで虚像を売りつけることに荷担した広告屋さんや、それを垂れ流して儲けてきたテレビ屋さんに、こうした問題の責任はないのだろうか。
日本の玄関の真ん前に、人を小馬鹿にしたような顔でまだ平然としてすましている“駅前留学”のウサギに見下ろされながら、バスがやってくるのを待つうちに、とりとめなくへそまがりの思いが広がってしまう。
このバスも初めてではない。東関東自動車道を走り抜け、潮来ICから水郷道路に出て、鹿嶋市の工場地帯や市街地を経て、少し遠回りしながら鹿島神宮駅へ向かうが、ほとんどの客はその間に降りてしまい、最後まで乗っていたのは2人だけだった。
爪木ノ鼻までは、駅前からタクシー。もちろん歩いて行けない距離ではないが、後の行程を考えると、少しでも早めに進んでおきたい。乗るときに「すみません。細かいものがないんですが、かまいませんか?」というと、「銀行も開いてねぇしなあ」と不機嫌そうに発車。
北浦の南に、東を向いて丸く突き出しているのが、爪木ノ鼻である。鹿島神宮の森が黒々と横たわる以外は、ひたすら平たいところに砂利道堤防に囲まれた田畑が広がっている。
ここも、真っ直ぐな農道で区画されているところをみると、干拓が行なわれたところだろう。その証拠には、内側にはくねくねした細い道が神社とお寺をもつ集落の間をうねっており、それを新田が取り巻くようにおし包んでいる。
岬は、その外周堤防の突端に、小さな葦の茂みを、ちょこんと残している。
とすると…島だったのか? いや、「鼻」の名を残しているということは、もともとここは地つながりの葦原で集落と接していたところで、それが干拓でいまのような形になった、と考えるのが正解なのだろう。
北浦でも、アサザ基金の活動は続いている。鹿島線の鉄橋に近いところには、幼稚園や小学校や職域などそれぞれのグループの立て札がほほえましい。
へそまがりは、ボランティアという言葉も好きではない。それが施政者の不作為あるいは無為無策の都合のよい隠れ蓑に利用されていることも、少なくないのではないかと思うからである。
人間の素朴な願いは、尊いものである。それが、需要と供給のメカニズムすなわち儲かるか儲からないかとは無縁のところで,うまく生かされ、それが世の中の大きな柱になるようなことは、どうしても望めないのだろうか。
▼国土地理院 「地理院地図」
35度58分10.66秒 140度35分44.44秒
関東地方(2007/11/24 訪問)
タグ:茨城県
へえ。八重洲口から鹿島行きのバスがあるとは、朝早くからそれを利用する人がそんなにいるとは、知りませんでした。かつては剣術修業や必勝祈願の鹿島詣は船で江戸川をのぼり、関宿から利根川を下って行ったそうですが、いつかそのコースを自転車で走ってみたいと思っています。
「たくさんの生きものをよびもどす……」ささやかな看板がいいですね。ほんとに水辺のヨシは鳥や昆虫などの楽天地となります。
by knaito57 (2007-12-18 07:05)
@八重洲南口からのバス便は、けっこうおもしろいですよ。意外なところが行先表示してあって。鉄道が合理化されていくにつれて、こうした隙間を中距離バスが埋めている、といった感じでしょうか。
でんでんむしは、たまに利用させてもらいましたが、岬めぐりでは関東地方はいちおう終了しますので。
この「ささやかな看板」ですがね、いろんな名前で何本も立っているのですが、その字が全部同じ人の手なんですね。
残念なことに、やらせがみえみえなので、それぞれこどもたちが自分で立てたのではないことがよくわかります。
by dendenmushi (2007-12-19 09:50)