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番外:北九州市立松本清張記念館=北九州市小倉北区城内(福岡県)『黒皮の手帖』ばかりじゃないのよ [番外]

 小倉といえば、“…度胸千両で 生きる身の 男一代…”でも有名だが、通り過ぎることはあっても、この街に降りたことはなかった。稲垣浩監督の映画も、三船敏郎と高峰秀子ばかり印象に残っているが、あれの脚本は伊丹万作だったのだ。だが、でんでんむしにとっては、小倉といえばやはりなんといっても松本清張だった。
 とはいっても、特別入れ込んだ熱心なファンというわけでもない。千点も超えるといわれるその作品群も、読んだのはそのごくごく一部に過ぎない。しかも、昔に読んだ作品のほとんどは、いまやもうきれいに忘れてしまっている。
 それでも、小倉に来たからには、ここだけは是非にも行って見たいと思ったのは、この作家の呼吸した「戦後」という一時代の空気を多少なりとも重なりあいながら共有してきた人間の一人として、その偉業には敬意を払う必要があると思ったからであった。
 空気はまったく共有しない森鷗外も、この小倉には陸軍軍医部長として3年間赴任していた。しかし、ドイツ留学もした彼のエリート意識は、それを左遷としか受け止められなかったのだろうか。多少の挫折感の中で東京へ帰る日を待ったであろう小倉時代には、その文学的活動はほとんどない。その師団の名残のレンガの門も残されている小倉城の一角につくられた市立の松本清張記念館は、小倉で生まれ、小倉で新聞社の広告部に就職し、『西郷札』や『或る「小倉日記」伝』など創作活動のスタートを切り、やがて日本のある時代をつくる大作家を排出したという誇りに満ち満ちている。

 東京の京王線の線路脇にあった高井戸の二階建ての自宅をそのままもってきて、当時の活動の拠点を移築再現している。それがまるで、さっき通り過ぎてきた豊後高田の“昭和の町”のなかにあってもおかしくない、“昭和の作家の家”そのものので、書斎や書庫や応接間をガラス越しに覗いていると、不思議な雰囲気につつまれる。
 どういう経緯でそれを手に入れたのかは不明だが、彼がそこに腰掛けて古代への思いを馳せたであろう東大寺の礎石ももってきて、展示室に入るとすぐのところにデーンとおいてある。
 その前には単行本になって出版された700点の作品のカバーがずらっと張り巡らせてある。それは、誰もが思うことだろうが、いかに自分が読んでいるものが少ないかを再認識させるという効果を充分に発揮している。一瞬、東大阪の司馬遼太郎記念館のことを連想した。
 
 そして、彼の一生を年表にして展示してあるのは、『個人史のすすめ』を提唱しているでんでんむしとしては、興味深いものがあった。そういうと、誰もが、「そりゃ松本清張だからできるのであって、わたしらフツーの人間にはできませんでえ」というだろうが、この22メートルの年表の展示パネルを前にして、たとえ清張でなくとも、記念館などなくても、パネルでなくとも、22センチのメモでもいいから自分の年表は誰にでもできるし、つくるべきだという持論の妥当性を再確認できた。(館内撮影禁止でしたが、誰もおらんのでこれだけちょっとこっそりガシャリ。ごめんね。やましい気持ちがまっすぐな写真を撮らせない。)
 社会派といわれた推理小説だけでなく、歴史小説、現代史、そして古代史へと、彼の作品も多くの点であり、それがまた見事な関連をもってつながって線となり、やがて面を構成して広がっている。
 『点と線』は、まだ時刻表というものが一般の興味の対象になる以前に、それをトリックに使ったことが話題になった。でんでんむしも、わざわざ東京駅まで確かめに行ったことがあるくらいだ。東京駅の電車も増え、ホームを見通すことなど1秒たりとも不可能になるのは、それからまもなくであった。
 『日本の黒い霧』や『昭和史発掘」など、一連の現代史ものもすごいとは思う。大衆娯楽小説の趣きもある『西海道談綺』などもおもしろい。多彩な作品のなかで、実はへそまがりのでんでんむしが、この大作家を一番評価したのはなんといっても『古代史疑』なのであるが…。これは、考古学界の旧弊で頑迷な壁に挑み、ちょっとは刺激し風穴を開けるきっかけになった記念すべき業績だと思える。

 城に隣り合う彼が勤務していた新聞社のある辺りは、建築家が互いに負けじと我を張りあったような一角になっている。小笠原流の庭を出る頃から雨が激しくなり、新聞社の下に逃げ込んだ。ここには地図のなにかもあったはずなのだが、台風の激しい雨はなんとなくそんな気分すら洗い流す。
 なんとか運良くタクシーを拾えたので、国土交通省出身の市長が好きで架けたのだと運転手さんが言う紫川に架かるいろいろな橋を横目に眺めながら、ホテルに入る。この日のホテルは、厚生年金の施設である。いろいろ問題にもなっているので、どんなところか体験してみたいと思ったし、ちょうど小倉城の南にあって、好都合である。
 ホテルの部屋からも、記念館の屋根も見えたが、雨はいままた小休止のようだ。部屋のテレビは、地元の局が流す雨中の博多山笠の様子を、延々と映し出していた。

▼国土地理院 「地理院地図」
33度53分1.82秒 130度52分21.46秒
138番外こくらせいちょう-38.jpg
dendenmushi.gif九州地方(2007/07/14 訪問)

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タグ:福岡県
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コメント 4

knaito57

私もあまり読んでいないのですが、松本清張は一種の巨人(ジャイアンツじゃない)だと思います。歴史(個人史を含め)を問い直す姿勢などは先駆的であり、強い精神なしには貫けなかったでしょうね。あの家があったのは「京王電鉄井の頭線の浜田山駅に近い線路脇」が正しいです。狭い庭に出ていた作家を2度ほど見かけたことがあります。(私にとって九州は未踏の地ゆえ、コメントのしようがないので……)
by knaito57 (2007-08-06 16:37) 

dendenmushi

@その庭に出て礎石に腰掛けているところの、すぐ後ろを電車が走っている空撮写真が展示してありました。土地は角地の三角なようなところでした。その写真説明に「高井戸」と書いてあったのですが、ご指摘を受けて改めて地図をみると、ここは「高井戸東」というところのようですね。浜田山駅に近いということであっても、ぎりぎり住居表示は「浜田山」ではない…そんな場所のようです。
記念館のパンフにも書いてありました。
『全力で駆け抜けた巨人 松本清張』
しかし、二度も見かけたって…。それ電車の窓から…ってことですよね。
ほんと、狭い庭ですよね。近頃の安手の推理作家が、大豪邸に住んでいるのをみると…。
by dendenmushi (2007-08-07 07:03) 

knaito57

そう、文豪・巨匠にはちょっとなじまない線路際の三角地でした。ここから南へ10分ほどの神田川を越えたところに杉下茂(元祖フォークボール)、さらに京王線上北沢駅南の桜並木に長島茂雄が住んでいました。ついでにいえば神田川の傍に新日鉄の弓道場があってあの武田豊もよく現れたし、甲州街道沿いに竹村健一が住んでいました……すなわち、私は有名人に強いんです。
by knaito57 (2007-08-07 09:47) 

dendenmushi

@有名人に強いknaito57さん、しかし、杉下茂は古いなあ。こどものころ遊んでいたベッタ(広島ではこういっていたし、“パッチン”ともいっていた)にありましたよ。青バット・赤バットとか…。今日から、甲子園が始まる…。
しかし、ここんとこ暑いです。
by dendenmushi (2007-08-08 07:55) 

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