071 燈明崎・千代ヶ崎=横須賀市西浦賀六丁目(神奈川県)光明はたとえ一筋であっても [岬めぐり]
黒船による砲艦外交といういささか強引な手段で、ペリーが長い間閉ざされてきたこの国の門を叩いたとき、横須賀や横浜は小さな漁村に過ぎなかった。あちこち江戸湾の水深を測量したというのも、実際に船をつけることができる港はなかったので、座礁させたくなければそうするよりなかっただろう。浦賀は、そのときからこの辺りでは奉行所がある“天然の良港”だっただろうが、四隻の蒸気船を停泊させ、一連の儀式を行なうにはあまりにも狭かったということだったのだろう。
結局、その第一歩は久里浜に印すことになるが、その上陸地点のそば開国橋の辺りからみると、湾の右手は久里浜フェリーの船着き場と火力発電所があり、左手には刑務所や少年院それに法務省官舎などがある。燈明崎と千代ヶ崎は、これらの施設の北側に位置している。一時間に一本しかない京急久里浜と浦賀を千代ヶ崎経由で結ぶバス路線もあるが、千代ヶ崎というバス停は少年院の前なので、ここで降りても岬へは行けない。
物心ついて以来、“浦賀”といえば“ドック”だったような気がする。多くの船がここで誕生し、造船日本の礎を築いてきたが、それも数年前に閉鎖された。
この細長い形の浦賀港の入口にあるのが燈明崎である。観音崎に日本で最初の洋式灯台ができる前には、日本には灯台がなかったかといえば、そうではない。“からくりランプ仕掛け”の洋式灯台はなかったが、灯芯で油に火を点す和式の灯台は、ちゃんとあったのだ。
その名の通りの燈明崎は、そんな灯台のひとつがあった岬なのだ。ここにもかつてあったというその燈明堂が復元されているが、その案内板によると、ここの燈明堂ができたのが1648(慶安元)年で、明治5年に廃止されるまで、実に220年もの間、一度もその灯が消えることなく、7キロ先までその光を届け続けた。おそらく、その光をペリーも指標にしたことであろう。こういう先祖を持ってきたということは、もっと誇りに思っていい。
昔は刑場もあったという燈明崎のすぐ南側に突き出しているのが千代ヶ崎だが、これらの岬に入ってくる道は燈明堂入口のバス停からの一本しかないようだ。途中老人ホームの下の、これもバブル後遺症を残したものか、フェンスで囲まれた広い荒れ地の横の淋しい道を、延々と歩くことになるが、浦賀からぼちぼち歩いてもそう無理のない距離である。
浦賀も大きなマリーナがあるかと思えば、陸軍桟橋という古い桟橋があったり、引き揚げ時のコレラの悲劇を伝える看板があったり、小さな朱塗りの渡し船があったり、ドックで栄えた面影とともに小さな港の歴史を伝えている。
(1/17の雨崎のページビューが、たった二日で360件を超えました。いつもは多くて50どまりくらいのマイペースで自己完結型を旨としているでんでんむしブログとしては、信じられな〜い!前代未聞のできごとです。どうしてなのでしょう? 三浦市の人が見たとか? それもないよね。どなたかその原因に、心当たりのある方教えてください。)
▼国土地理院 「地理院地図」
35度13分57.79秒 139度43分44.14秒 35度13分45.05秒 139度43分44.29秒関東地方(2007/01/13 再訪)
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