1491 善知鳥崎2=青森市大字浅虫(青森県)「157 善知鳥崎」の写真は善知鳥崎ではなく鼻繰崎ので善知鳥崎はこっち [岬めぐり]
東北新幹線が青森を走るようになって、それまでの東北本線は青森=八戸=目時が青い森鉄道に移管されることになった。JRは新幹線だけで、八戸から青森を結ぶことになったのだが、この線が八甲田山寄りの山中を通るのでトンネルばかりでさっぱりおもしろくない。
旧東北本線の一部を引き継いだ青い森鉄道は、途中で夏泊半島の付け根を横切り、青森湾と野辺地湾の海岸を通る。昔の奥州街道も県道9号線となって並行して走り、その一部は国道4号線のバイパスとして合流している。
ちょうど久栗坂から北の青森市内では、国道と県道がひとつになっている区間で、善知鳥(うとうまい)崎は、そのなかにある。
244メートルの小松山から西へ流れ下る尾根が、幅のある塊となって青森湾(むつ湾)へ落ちていく。その先っぽが小さなコブとなって、海に突き出ているので、国道・県道も、そこだけはトンネルで通ることになる。旧東北本線の青い森鉄道は、浅虫トンネルで深くその内側を通っている。(トンネルのある崖の向こうにある丸いのは、浅虫温泉の湯ノ島)
青森県をうろうろしているときにも、何度かここは通過していて、2007年には「今回のように往復ここを通過するとなると、なんとかひとつくらい岬をゲットして記録に残しておきたい。そんなこともあって、浅虫温泉の南側に、東北本線の走る車窓から、ちらりと映る善知鳥崎(うとうまいざき)だけむりやり…」というわけで、
157 善知鳥崎=青森市大字浅虫(青森県)ワタシハマッカナリンゴデス
として項目を設けていた。
したがって、ここは「善知鳥崎2」となる。けれども、157項では通過する岬の代表としてあげてはみたものの、そこで掲げている写真を見ると、それは善知鳥崎ではなく鼻繰崎のものだった。
そんなわけで、ここは前の修正を兼ねての「善知鳥崎2」となる。今回は、浅虫温泉駅前からタクシーでトンネルを抜けた南側まで連れてきてもらったので、南から見た写真が中心になる。浅虫温泉の海岸からも見えるのだが、鼻繰崎と完全にかぶってしまうので、あまりパッとしない。
この湾岸を通る奥州街道が唯一の道だった時代は、このコブを回りこんで通り抜けるのもなかなか大変な難所だったらしく、親知らず子知らずに相当するような記録もあるらしい。
現在の地理院地図をみても、浅虫トンネルから海岸に至る山の上には、複雑な破線の山道が描かれている。これも、難所の海岸を避けて、登り降りは多少きつくても、確実で安全なルートとして使われたのではないか。山の上の破線は、そんなことを想像させてくれる。
一方、山の下でも、よく見ると国道の内側にもう一本の線があり、そこにもかつては旧道トンネルがあったことを偲ばせている。右手に黒く見えるのがその旧道のトンネル跡。
さらには、国道トンネルの外側、海寄りにも、もうひとつの旧道があったことを、地図は示している。
浅虫トンネルの開通は1967(昭和42)年で、それ以前は鉄道も海岸の現在の国道付近を走っていたのだろう。
東北本線の盛岡=青森間の開通は、1891(明治24)年のことだが、明治の鉄道敷設は、築堤を築いて線路を敷くという工法も多かったと思われる。最初に開通した新橋=横浜間の鉄道も、錦絵などでは海の中を走っているように描かれたものがある。おそらく浜松町付近などは、用地買収も要らない築堤方式が使われていたのだろう。
この善知鳥崎付近でも、古い地図では鉄道がゆるく凹んでいる入江の外側をまっすぐ走っているのを見たことがある。また、海岸では古い石積みの跡も見つかっているという情報もあったので、あれこれ総合すると、これはほぼ間違いないだろう。
明治天皇もやってきたとかいうのも、全国に延びる鉄道のシンボルのようになった場所だったのかもしれない。ここは古戦場でもあったという。いったいいつの戦いかというと、1189(文治5)年頃のことで、奥州藤原氏が源頼朝の幕府軍に滅ぼされるが、その残党が最後の戦いを挑んだところとされている。
また、ここが東の南部と西の津軽の境界であったという記録が「吾妻鏡」にあるともいう。別な情報では、南部と津軽の境は、野辺地町の馬門(まかど)と平内町の狩場沢の間に藩境塚があるとする。夏泊半島の東と西でだいぶ差がある。どちらが正しいのか、調べてみようとしたが、よくわからない。
ただ、「吾妻鏡」よりずっと後の情報では、南部弁と津軽弁の境などからすると、馬門・狩場沢ラインに分があるようだ。昔から仲が悪いとされてきた南部と津軽のことだけに、通りすがりの部外者がよけいなことを書くわけにもいくまい。
▼国土地理院 「地理院地図」
40度53分0.04秒 140度51分1.91秒
東北地方(2017/09/04 訪問)
タグ:北海道
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