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1944☆『思い出の索引』★でんでんむし@アーカイブス☆わたしたちが生きてきた時代とは… [年表]

われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…? 
  そういう時代のなかで、そのとき自分の親や祖父母は、どこで何を考えて、どう生きていたのだろうかと、いつも考えていた…。ただ、でんでんむしの場合には、記録がほとんど残っていないので、それもわずかな記録から想像をめぐらせてみるしかない。
 やはり、歴史年表と個人の関係は、あまりにも遠すぎる。遠い昔のことはわからないが、それでも近世のことであれば、自分の祖先の誰かもそこに生きてきたというつかみかたも、まったく不可能ではあるまい。『思い出の索引』というのは、読む人見る人によって、さまざまな想いがあふれてくる(かもしれない)…そんな程度のことである。

❖年表の元ネタ主な参考資料:
三省堂『コンサイス世界年表』三省堂編修所編。河出書房新社『昭和・平成 家庭史年表』下川耿央・家庭総合研究会編。小学館『昭和・平成 現代史年表』神田文人編など。

1944mark.jpg昭和19年 甲申(きのえさる)
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◯ソ連がレニングラード市を独軍から奪回。
アルゼンチンでペロン大佐のクーデター。
米空軍による初のベルリン昼間爆撃。
独軍、オデッサから撤退。ソ連軍がセパストポリ攻撃。
独軍、クリミア半島から撤退。
独アイヒマン、ハンガリーのユダヤ人をアウシュビッツへ移送。
米で共産党の解党。
ブルガリアで新政権、連合軍と休戦交渉開始。
米第五軍が伊ローマに入る。
連合軍が仏ノルマンディに上陸。(第二戦線の形成)
独、V1号(ロケット)でロンドンを報復爆撃開始。
ブレトンウッズで連合国の経済会議。国際通貨基金と国際復興開発銀行創設を討議。(ブレトンウッズ体制の始まり)
独軍将校によるヒトラー暗殺未遂事件おこる。(7.20事件)
ポーランドで国民解放委員会設立、ソ連が承認し友好軍事条約締結。
ワルシャワで民衆が反独武装蜂起(8月)。(10月鎮圧される)
連合軍が南フランスに上陸。パリで民衆蜂起始まる。
米英ソ中、国際連合憲章の基礎を協議。
ルーマニア、連合国の停戦条件を受諾。
独軍パリ撤退、パリ市民首都解放。連合軍パリ入城。ド・ゴールパリ帰還。
ブルガリア、中立宣言。
ソ連軍、ルーマニアのブカレスト入城。
フィンランド、ドイツと国交断絶。
英加軍、ブリュッセルを占領。
ソ連、ブルガリアに宣戦、共産主義者の武装蜂起。
仏でド・ゴールを首班とする共和国臨時政府樹立。
米英首脳が第二次ケベック会談。対独・対日の最終的勝利戦略を協議。
ルーマニア、モスクワで米英ソと休戦協定に調印。
モスクワで、スターリンとチャーチルが会談。
ソ連軍、東プロシアで独国境を突破。
ユーゴ、人民解放軍がソ連軍とともにベオグラードを占領。
米英ソ、アルバニアの臨時政府を承認、全土が解放。
ギリシャ、国民解放戦線が蜂起。内乱が始まる。
ハンガリー、モスクワで臨時民族政府樹立。
独軍、西部戦線アルデンヌ地区で、最後の反攻に出る。
米、ワクスマンがストレプトマイシンを発見。

南京政府主席の汪兆銘が病気治療のため渡日。
◉日本軍が京漢打通作戦を開始。3鉄道を占領して南方占領地連絡確保と米軍基地の破壊を狙う。
蒋介石が特使として訪中した米副大統領と会談。(ウォーレスによる国共調停)共産党代表もウォーレス特使と会うが不成功に終わる。
米はこの後も大統領特使ハーレーを派遣。
◉雲南のビルマ国境付近の日本軍が壊滅。
蒋介石が米軍事顧問スティルウェルの罷免を要求し、交代。
南京政府主席の汪兆銘が名古屋で病死。陳公博が主席代理に就任。
フィリピン亡命政権のケソン大統領が米で死亡。
フィリピンが米英に宣戦を布告。
◉日本軍の指導で、インドネシアにジャワ奉公会。

◉1.7大本営がインパール作戦を許可。(3.8作戦開始。7月退却)
◉2.1米軍がマーシャル群島に上陸。
◉2.6マーシャル群島クェゼリン島、ルオット島の日本軍守備隊6800人が全滅玉砕。
◉2.17米機動部隊、トラック島を空襲。日本海軍艦船43隻、航空機270機を失う。
◉2.29米軍がロスネグロス島に上陸、ラバウル地区が孤立。(この方面の損害合計は死者13万人、艦艇70隻、船舶115隻、飛行機8000機)
◉6.15米軍がマリアナ諸島サイパン島に上陸。
◉6.16中国の成都から飛来した米軍機47機が北九州に来襲、八幡製鉄所を空爆。
◉6.19マリアナ沖海戦。太平洋戦争中最大の日米艦隊決戦。日本は空母3隻、航空機420機を失い大敗。
◉7.4大本営がインパール作戦の失敗を認め、作戦中止を命令。(この作戦の戦死者3万人、戦傷病者4万5000人。)
◉7.7サイパン島の日本軍守備隊3万人が玉砕。住民死者も1万人。
◉7.21米軍がグアム島に上陸。
◉8.3テニアン守備隊8000人が玉砕。
◉8.10グアム島の日本軍守備隊1万8000人が玉砕。
◉9.15米軍ペリリュー島に上陸。日本軍守備隊は2か月間交戦を続け玉砕。
◉10.10米機動部隊が沖縄を攻撃。
◉10.12台湾沖航空戦。大本営が敗け戦の事実に反して“大戦果”を発表。
◉10.20米軍がレイテ島に上陸。
◉10.24レイテ沖海戦。日本は空母4隻と戦艦3隻のほか26隻、航空機215機を失い、連合艦隊は事実上の壊滅状態に。
◉10.25レイテ沖で海軍神風特攻隊が米艦隊に体当たり。
◉10.25中国各地の米軍基地から飛来したB29約100機が、北九州を爆撃。
◉11.24マリアナ基地からB29約70機による東京初空襲。これ以降、本土各地への爆撃が本格化する。

◉軍需会社の一次指定。緊急国民勤労動員方策要綱を決定。
◉内務省が改正防空法による初の疎開を東京・名古屋に命令。(指定区域内の建物強制取り壊し)
◉東条陸相が参謀総長を兼任。嶋田海相が軍令部総長を兼任。軍政両面の独裁体制。
◉決戦非常措置要綱を決定。
◉中学生の勤労動員大綱を決定。
◉国民総決起運動中央総会を開催。
◉閣議で国民学校初等科児童の集団疎開を決定(6月末)。8月第一陣出発。
◉嶋田海相辞任、米内大将入閣拒否。(マリアナやサイパンの敗北で東条独裁に批判と不満が表面化。皇族・重臣らも倒閣に動く。)
◉東条内閣総辞職、小磯陸軍大将が組閣。
◉閣議で国民総武装を決定。(竹ヤリ訓練など始める)
◉学徒動員令・女子挺身勤労令を公布。
◉重光外相が独大使に独ソの和平斡旋を提議、独は拒否する。
◉マリクソ連大使に特派大使派遣を提議、ソ連は拒否する。
◉陸軍省、兵役法施行規則を改正し、満17歳以上を兵役に編入。

・この年に亡くなった人にはこんな人も…。河合栄治郎。古賀峯一。中里介山。南雲忠一。頭山満。尾崎秀実。牧口常三郎。沢村栄治。エドヴァルド・ムンク。ピエト・モンドリアン。アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ。アリスティド・マイヨール。エルヴィン・ロンメル。リヒャルト・ゾルゲ。汪兆銘。ワシリー・カンディンスキー。グレン・ミラー。ロマン・ロラン。

◎兵庫県但東町出身の満州開拓団が、逃避行の末に黒竜江省呼蘭江で集団入水。384人中298人が死亡。
◎学童800人を含む乗客1661人を乗せた「対馬丸」が米潜水艦の攻撃を受け、鹿児島県悪石島付近で沈没。

◎決戦非常措置要綱により享楽追放の理由で、東京歌舞伎座、東京劇場、新橋演舞場、大阪歌舞伎座、京都南座など19の劇場が休場。
◎宝塚劇場の最終公演にファンが殺到。
◎東京都でビヤホール、デパート食堂、喫茶店などが「雑炊食堂」に。
◎警視庁、高級料理店、待合い、芸妓屋、バーなどを閉鎖。
◎国鉄、一等車、寝台車、食堂車を廃止。特急全廃、急行、旅客列車も削減。貨物列車増発。
◎旅客制限のため、片道100キロを超える旅行には旅行証明書が必要に。
◎軍需省、大本営政府連絡会で「我が国の経済力は潜在的余力をほとんど喪失している」と説明。
◎鉄道省、東京都庁、金融機関などが、日曜日休日を廃止。
◎海軍軍令部、9種類の特攻兵器を提案。そのうち、回天(人間魚雷)、震洋(合板製滑走艇)が実現。
◎軍需省、全国の各家庭の飼い犬を強制供出させる。毛皮は飛行服、肉は食用にするため。また、ダイヤモンドや白金の買い上げも実施。

◎北海道噴火湾東岸で、大噴火により新山が出現。昭和新山と命名。
◎東海地方に大地震。津波襲来、死者998人、全半壊流失家屋7万6139戸に達する。
◎2000社の出版社が、180社に統廃合。
◎東京都の2700軒の大衆食堂が、外食券専門食堂に。
◎週刊誌に「食べられるもの色々」という記事が掲載される。
◎内田農商務相が、御前会議で「食糧が最低量を切ることを、一日でも早く国民に知らせたい」と発言。
◎疎開児童の間では、お手玉の中の大豆はほとんど食べ尽くされ、おはじきが食べられるという話が広がる。

■流 行:
■映 画:邦:あの旗を撃て・加藤隼戦闘隊・日常の戦ひ・五重塔・陸軍。
■ 本 :太宰治/津軽・三島由紀夫/花ざかりの森・竹内好/魯迅・中村汀女/汀女句集。
■ 歌 :同期の桜・ラバウル小唄・ラバウル海軍航空隊・特幹の歌・少年兵を送る歌・勝利の日まで・突撃喇叭鳴り渡る・ああ紅の血は燃ゆる。童謡:。
■ことば:鬼畜米英・一億火の玉。

dendenmushi.gif2014/09/21 でんでんむし蛇足の記)
 人間のいちばん古い記憶は、どのあたりから残っているものだろうか。いつの頃かはわからないが、列車に乗って出征兵士の隊列のようなものを見送ったような記憶もあるが、きわめてぼんやりしている。また、どこかから電話がかかってきて、電話口に抱かれて行き、そこでなにかしゃべれと周りから言われたような記憶もあるのだが、それがいつのことかはわからない。 
 父母の顔も知らず、祖父母や叔母に囲まれて育ったでんでんむしには、この頃の記憶がバラバラにだがけっこうたくさん残っている。「見よ東海の空あけて…」と歌っていたことも、手回し蓄音機で分厚いレコードを聴いていたことも、大八車になにやらいっぱい積み込んで近くの小学校に供出に行ったことも、その小学校の校庭でバケツリレーで消火訓練をしていた光景も、いったって鮮明に覚えている。 
 酒屋の前の広場にラジオ体操に行ったこと、家の前の大きな防火用水で木片に犬釘をつけた潜水艦遊びを近所のお兄さんに教わったこと、そこには大きなボウフラがいて水槽の縁を叩くとあわてて沈んでいくのがおもしろかったこと、イノコ祭りの列にくっついていったなどなど…も。 
 家には、カメ(この頃では一般に洋犬のことそう呼んでいた)という名の犬もいたのだが、それがいつからいなくなったのかは、さっぱり記憶にない。
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