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1905☆『思い出の索引』★でんでんむし@アーカイブス☆わたしたちが生きてきた時代とは… [年表]

 われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…。

1905mark.jpg明治38年 乙巳(きのとみ)
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◯露ペテルブルクで労働者の請願デモに軍隊が発砲。血の日曜日事件が露第一革命に。
◯バルチック艦隊がマダガスカルを出港。
◯独皇帝ウィルヘルム2世がモロッコの港タンジールを訪問。領土保全を理由に干渉。(第一次モロッコ事件)
◯ノルウェーがスウェーデンからの独立を宣言。
◯露戦艦ポチョムキンで水兵の反乱。
◯サンフランシスコで「日本人・朝鮮人排斥同盟」が大会を開く。
◯米国大統領セオドア・ルーズベルトが日露講和を勧告。日露が受諾。
◯行き詰まった交渉打開のためルーズベルトが日本に賠償金請求の放棄、露に早期妥結を促す勧告。
◯ロシアで戦艦ポチョムキンの水兵が反乱。
◯アルベルト・アインシュタインが特殊相対性理論を発表。同じ年に5つもの画期的な論文を発表「物理学奇蹟の年」。
◯露モスクワで労働者が武装蜂起。
◯露ペテルブルクでトロツキーを議長とする労働者代表ソビエト誕生。

◉旅順の露軍降伏、開城。乃木希典第三軍司令官と露軍ステッセル司令官が水師営で会見。
◉隠岐島と鬱陵島の間にある島を日本政府が閣議で竹島と命名、島根県隠岐島司の所管とする。
◉黒溝台で露軍が大規模反攻に出るも日本軍が撃退。
◉奉天の露軍に総攻撃。占領入場なるも、死傷者約7万人。(奉天会戦)
◉ウラジオ入港を図るバルチック艦隊と、これを阻止せんとする連合艦隊が対馬沖で会戦。5月日本海海戦で東郷元帥率いる連合艦隊が露艦隊を全滅させ勝利。
◉樺太に上陸。樺太占領を終える。ノトロ岬を近藤岬、シレトコ岬を重蔵岬などと改名。
◉桂・タフト協定で日本の韓国支配と米国のフィリピン支配を相互承認。
◉日露講和会議ポーツマスで開催。日本の全権大使に小村寿太郎。
◉第2次日英同盟に調印。
◉孫文が東京で中国同盟会を結成。
◉米大統領の勧告を入れる形で、決裂寸前でポーツマス条約(日露講和条約)締結。日本の韓国保護承認、南樺太と遼東半島租借権、満鉄などを獲得。
◉日露戦争講和条約に反対する民衆が交番や電車、政府系新聞社を焼き討ち暴動(日比谷焼打事件)が発生。東京に戒厳令。
◉全国各地で講和条約に反対の大会が開かれる。
◉桂・ハリマン覚書交換で、南満州鉄道の共同経営を約すも、後に日本側が破棄。
◉東京湾で海軍の凱旋記念大観艦式開催。
◉戦争継続対露強硬論の東京帝国大学戸水寛人教授を文部省が休職処分に。
◉第2次日韓協約が締結、日本が韓国の外交権を掌握。
◉第2次日韓協約に基づき韓国統監府を京城に設置。初代総監に伊藤博文。
◉日本で最初の大使館がイギリスに設置(公使館が昇格)。
◉日本軍の人的損害は、戦死傷者約21万8000人、戦病者約22万1000人。
・この年に亡くなった人にはこんな人も…。田口卯吉。タゴール。

◎神戸製鋼所設立。
◎三菱神戸造船所が初の浮きドックを設置。
◎津田梅子らがYWCAを創立。
◎夏目漱石が『ホトトギス』1月号から『吾輩は猫である』を連載開始。
◎日比谷公園で「旅順陥落記念東京市大祝勝会」開催。
◎吾妻橋で軽気球、白木屋が百貨店初の福引大売り出しなど、祝勝イベントが盛ん。
◎日露戦争の勝利を記念して隅田川に「勝どきの渡し」が運航開始。
◎奈良県鷲家口でニホンオオカミの捕獲。これが最後の確かな発見でニホンオオカミ絶滅の年とされる。猟師がこのオオカミの死骸をアメリカ人に売却、後に大英博物館に展示される。
◎平民新聞廃刊、内部対立により平民社解散。
◎29年在日のドイツ人医師ベルツが帰国。
◎阪神本線、大阪=神戸間が開業。
◎北海道釧路線の釧路=帯広間が開通。
◎奥羽線の福島=青森間が開通。
◎山陽鉄道の下関=釜山間の航路が開設。
◎京浜電鉄が品川ー横浜間で全通。これに対抗して官鉄は新橋=横浜を27分で結ぶ急行を運行。
◎広島を中心にM7.6 の芸予地震。
◎北海道厚岸町で大火。
◎大阪瓦斯が開業。
◎盛岡市に電灯がつく。
◎東郷平八郎元帥にあやかろうという“東郷商品”が多数。

◎文部省が「凱旋三部唱歌」(旅順開城、奉天会戦、日本海海戦)を制作し、全国へ配布。
◎上田敏の訳による詩集『海潮音』刊行。
◎石川啄木19歳で処女詩集『あこがれ』出版。
◎隅田川で第一回早慶ボートレース、早大の勝利。
◎小島烏水、日本山岳会を結成。会員数393人。
◎「東京朝日新聞」が一面を全面広告にする。
◎森永西洋菓子製造所がエンゼルマークの使用を開始。
◎仁丹発売(森下南陽堂)。
◎美術雑誌『みづゑ』創刊。
◎『戦友』『ラッパ節』『電車唱歌』などが流行る。

dendenmushi.gif(2014/07/05 でんでんむし蛇足の記)
 中学校で日本海海戦の授業をしてくれた先生の話は、すでに書いているが、戦争の話というものは、実際に鉄砲を持ったり、大砲を撃ったりして殺し合いに参加する、戦争をする当事者以外にとっては、ゲームのようにしか思えないものなのだろうか。勝った勝ったバンザイバンザイと、形状しがたい狂騒が街中を日本中を覆っていく。
 そして、講和後はその講和に反対する論調とその支持者が、暴徒化したり、街に火をつけて歩くということまで起こっている。(この年の1月から9月までの間に東京で起きた火事は628回。そのうち放火が273回で。その大半は“屈辱的な講和反対”の焼き打ちだった。)
 今でこそ、日露戦争の勝利は非常にきわどいものだった、講和で勝利の形を維持しながらなんとか幕引きができたのは日本にとって幸運だったという事実は、多くの情報資料によって明らかにされていて、多くの人がそれを理解しているはずだが、当時はそういうことは誰も知らなかったようだ。
 小村寿太郎に石を投げる日本人が、こんな日本がなんとも情けない。
 日露戦争の陰で目立たないが、朝鮮半島の動きは、でんでんむしの祖父にも大きく関わってくることになる。
 「戦艦ポチョムキン」も、映画でしか知らないが、このエイゼンシュテインの映画がまた、この年表にもいつか記録されるはずの、映画史のうえでは欠くことのできない重要なエポックになるものだった。
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タグ:年表
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