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戦争の記憶を伝える八重山戦争遺跡のひとつは石垣島測候所の壁で(46) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 西表島の岬めぐりで「日本最南端のバス停」のある南風見は、「1069 落水崎」の項 で書いていた。ここでちょっとふれていた、戦争マラリアの慰霊碑というのは「忘勿石」とその祈念碑の両方があるらしい。それは、波照間島から意味もなく移住させられ、故郷の島影が望める西表の南風見で、意味もなく苦しみ死んでいった人々たちの鎮魂のためと、後世にその悲劇を忘れないで伝え残そうというものだった。
 その1069項でも、「こんな美しいなにげない風景のなかにも、“戦争”の二文字が陰を落としている場所が多い」と書いていたように、八重山の戦争遺跡は34件もある。それは、八重山平和祈念館でもらってきたコピーに一覧にしてあって、地図にプロットしてあった。
 それらは慰霊碑や忠魂碑のほか、陣地や掩蔽壕、銃眼などの軍施設跡や部隊ごとの慰霊碑、避難壕として使われた洞窟といったものである。
 沖縄ではいまも「平和学習」というのがあって、こどもたちも八重山平和祈念館へやってくるらしい。
 一方、本土ではいまや昔通ってきた(「平和」というと「アカ」呼ばわりをされるような)道に、逆戻りし始めているような風潮さえも一部に感じられる。沖縄での住民の犠牲に、軍は関与していない責任はないという言説まであらわれる。原爆マンガは残虐でこどもに有害だと、市長や校長や教育委員会がこれを図書館から排除しようとする…。
 その沖縄の「平和学習」も、それを支えてきた教組などへの反発対抗勢力が徐々に声を大きくして力を増し始めていて、なかなか平和なままではいられない。八重山の教科書問題が起こったのも、先の石垣市長選挙では自民党が推す現職がまた勝ったのも、沖縄の新聞や朝日新聞への批判攻撃も、そうした流れの中にあるような気がする。
 石垣島の鍾乳洞に入っていたときに、逃げ場隠れ場のない沖縄で、人々がこうした洞窟に逃げ込まざるを得なかったことを、否応なく連想してしまった。アメリカ軍が撮影したフィルムで見た、洞窟の入口から中に向けて火炎放射器の炎が発射される場面が、鮮明に思い出される。
 琉球石灰岩の洞窟が数多くあったことが、結果的に沖縄の悲劇を拡大してしまったということは、考えられないことなのだろうか、とふと思う。
 石垣市立図書館前の公園に、憲法第第九条の碑があることや市長選挙や八重山教科書問題などについては、前の「石垣島だより「左から右へ揺れ動く民意のなかで混迷する八重山の教科書採択問題(08)」 でも触れていた。
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 第九条の碑もそのうち埋められてしまいました、といったことになるのでは…と心配もしていたが、保守市政のもとでもまだ無事である。先日来のニュースで、日本国憲法とそれを守ってきた日本国民にノーベル平和賞を申請するとかいったものがあった。それもいいアイデアかもね。だが、ノーベル賞のなかでも平和賞くらい権威と納得性に欠けるものはないんだけど…。だから、このアイデア、皮肉が効いてていいのか!
 戦争の放棄をうたう条文の大きな石碑の後ろを、平和のハトが支えているところから少し離れて、なにやら壁のようなものが立っている。
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 34か所の八重山戦争遺跡のリストにはなかった(ちょうど移設の狭間だったのか)が、これも戦争遺跡のひとつなのだ。台風進路の第一線の観測拠点であった、石垣測候所(気象台)の壁に残っていた弾痕。気象台の壁は米軍機や艦砲射撃による多数の弾痕を受け止めていたが、改修にともなってその一部をこの新栄公園に移設保存したのだという。
 不思議なことには、この壁が立っているだけで、なんの説明もない。この移設された壁は、まだ彈痕が少ないほうなのだが…。
 また、少し脱線するが、ここまできて前に書いていたこととの関連が明らかになってきた。石垣測候所といえば、(石垣島だより(40)シーズン2)の項 でふれた柳田国男とも関係があった。1921(大正10)年の柳田来島当時、石垣測候所の所長などに歓待されている。記録などにはその名前などくわしいことが残されていなかったが、それが岩崎卓爾のことであった。
 岩崎は、明治の末に新設された石垣島測候所の赴任して所長となり、以来亡くなるまでの40年間にわたって石垣島に住み、石垣島を愛した文化人であったのだ。一地方の名士の枠を超える活躍は、八重山地方の生物、民俗、歴史など広範に及び、多数の著書を残していた人だった。新発見の生物も多く、それらには「イワサキ」の名が冠してあるほどだ。
 それで、柳田国男が石垣島を訪れたとき、測候所所長自らがなにかと世話をやき、島を案内したであろうことが想像できる。おそらく、柳田の歌が「八重山新報」に載ったのも、その筋からであったろう。それにしては、岩崎のその情熱と思いは、柳田に伝わったのかどうか、彼の残したメモからみると岩崎の名もなく、残念ながらさほど関心を示していないように見受けられる。
 当時から石垣島測候所は、島のなかでも特別な存在であったと思われる。それを思わせる古い写真が(石垣島だより(38)シーズン2)の項 の喫茶「海坊主」店内の壁に飾ってあった。
 これをみると、やはり艦砲射撃の標的になるのは、これだけ目立っていればむりからぬことだ。
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 平和の鐘やら非核宣言の碑やら、ここにはいろいろあるのも、長く続いていた“革新市政”のおかげだったのかもしれないと思ったので、世代交代も計ることができないでまたまた“保守”に敗北した選挙結果をうけて、また中央では憲法を“改正”しようという動きが盛んである。やはり、これらが埋められてしまう可能性も、まるっきり杞憂とは言えないかも…。
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 水溜りも残る雨上がりの公園では、澄み切った青空のもと、ゲートボールに興じている年配者のグループがあった。この人たちは、戦争の記憶を残しているのだろうかどうだろうか。
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dendenmushi.gif沖縄地方(2014/04 記)

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タグ:沖縄県
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コメント 2

ハマコウ

毎年夏に行われる「沖縄研修」は今でも行われています
これがなくなるような時代が来てしまうことを恐れています
いろいろなことを言われてしまいますが
「教え子を二度と戦争に行かせない」
先輩方の戦後当初の気持ちを 忘れないでいたいと思っています

「御上」にいた人・いる人は戦争の恐ろしさを忘れてしまうのでしょうか

by ハマコウ (2014-04-19 06:44) 

dendenmushi

@ハマコウさん、そのとおりですね。沖縄へ行くと、いやでもそれを考えるのが普通だと思いますね。
そういう気持ち二度と戦争を起こしてはならない、と沖縄に対する大きな思いを、多くの制約のなかでもっておられるのは、ほかならぬ天皇皇后両陛下ではないのかという感じもします。
護憲の催しなどに、施設を貸さないという自治体が現れる。それも右派の議員が横槍をいれるからで、それ自体が憲法第99条に反していることなど、すっかり忘れられています。
憲法第99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」
by dendenmushi (2014-04-19 08:26) 

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