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思ひやる八重の汐々…石垣島の柳田国男の歌碑は三度目の正直でやっと“発見”(40) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 写真はイメージです(^-^;。場所は白保からは20キロ北へ行った明石の海岸で、ヤシの実はその砂浜にあった本物ですが、海寄りに移動させています。
 柳田国男(これも“國”が正しいのだろうが、これまで国できたので)が石垣島に滞在していたのは、1921(大正10)年の1月末の一週間程度でしかない。それは、長い官僚生活から足を洗い、朝日新聞の客員として九州南部から南西諸島や沖縄をめぐった一連の旅の終わりであった。
 そのとき、朝日新聞に連載した旅の記録が後に『海南小記』にまとめられて発表される。そのなかでも、石垣島についての記述はそう多くはないが、それから40年後、没年の直前年になって発表したのが、日本人と稲作の渡来に他界の考察で彼の名を不動にしたといってもいい『海上の道』(1961(昭36)年)なのだ。
 それ以前に、まだ学生だった1898年(明治31)年の夏休みに、滞在した伊良湖岬の恋路ヶ浜 で拾った椰子の実の話を、同行できなかった友人島崎藤村にしている。藤村がその話から詩人らしい想像の翼を広げてつくったのが、それから3年後に発表したかの有名な『椰子の実』である。このエピソードは、『海上の道』の冒頭部分を飾ってもいるが、ヤシの実から海上の道に至るまで63年かかっている。実に息の長いあたためかただ。
 その経緯と展開については、前の「石垣島だより」の「白保のサンゴ礁は有名だが見つからない柳田国男の歌碑も海上の道に没したのか(27)」 でも多少触れた。
 問題は、そのときにも白保で発見できなかった柳田国男の歌碑のことだ。それが気になっていたのは、そのふたつの著作でも旅のメモをときおこした資料にも、石垣島の白保での歌のことなど、どこにも出てこないので、どこでどうしてその歌が詠まれたのか、どんなことで歌碑ができたのかも、さっぱりわからないからだ。誰に聞いてみても、知っているという人や情報にもまったく出会わない。
 今回もまた、確かにあることだけは確認したので、しつこく白保の海岸を行ったり来たりしてみた。そして、白保訪問二日目にして、やっと海岸で知っている地元の人に出会うことができ、ついにそれを“発見”することができた。
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 珊瑚の白い砂浜が急な傾斜で盛りがった先に、アダンやトベラやモンパノキなどが密生するところに、わかりにくい踏跡がある。そこを入って行くと意外に大きな石組みの台座に、ごっつい石の歌碑が鎮座していた。台座の周囲だけは木が茂らないよう空間ができていたが、回りを大きく木々が覆っているので、浜辺からはまったく見えないのだ。
 これじゃ何度行ったり来たりしても、なかなかわからないわけだ。
 しかし、歌碑はあったが、歌の生まれた経緯や白保での行動などが明らかになったわけではない。
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 歌碑の裏にある説明によると、これができたのはそう昔のことでもなく2001(平成13)年の暮で、「柳田國男歌碑建立既成会」とあるだけでその実態も想像しがたい。石碑の脇には白い杭が立てかけてあるが、それは愛知県渥美町(現:田原市)観光協会が平成14年に行なったらしい、“やしの実投流記念”のものだとわかるくらいだった。
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  あらたまの まさごにまじる たから貝
      むなしき名さへ なほうもれつつ

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 この歌は、柳田が石垣島を去った翌日2月1日の地元紙『八重山新報』の記念すべき第1号に掲載されたところまではわかっているが、どういう形でどういう発表がされたかなど、それ以上のことは不明。歌碑は確かに見つかったが、あいかわらずうやむやの世界であった。
 タカラガイは、主に宮古島北部の八重干瀬(やえびし)あたりで大量に産していたという。でんでんむしも、白保や明石の海岸で光沢の見事なこの貝をいくつか拾って帰ったが、これを貨幣にしたところは多く、中国でも始皇帝の銅貨鋳造までは珍重されていた。大陸から流れ着いて来た人が、このおたからに惹かれる形で家族と稲作の種籾と技術をたずさえてきて、定住したという仮説はたいへんおもしろく、また説得力もある。
 『海上の道』のなかで、柳田はこのように書いている。

 籾種ばかりを只ひょいと手渡しされたところで、第一食べて見ることすらできない。単に栽培者が自ら携えてきたという以上に、父祖伝来の経験が集積調和して、これを教訓の形をもって引き継がれなかったら、この作物の次々の改良はさておき、外部の色々の障碍にすらも、対抗することができなかったろう。
すなわち最初から、少なくともある程度の技術とともに、あるいはそれ以外に米というものの重要性の認識とともに、自ら種実を携えて、渡ってきたのが日本人であったと、考えずにはおられぬ理由である。

 確かに、たとえ稲の籾だけが渡ってきたとしても、それが稲作にすぐに結びつく可能性は極めて低い。池をつくって水を溜め水を引く灌漑技術と、水田で稲作を営む技術をもった指導者がいなければ、とうてい成り立たなかっただろう。
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 そして、そう考えると、八重山に伝わるさまざまな祭りや祭祀の意味もまた、無理なく理解できるのだろう。
 「私の導師は柳田国男と折口信夫であった」という谷川健一は、その著書『柳田國男の民俗学』(岩波新書 2001)のなかで、次のように書いている。
 
 江戸時代の国学者の他界観の研究は、常民を視野に入れることがなかったために、発展を望むことができなかった。それが可能になったのは、国学を継承して新国学を提唱した柳田と折口が、南島民の生きた世界観にもとづいて日本人の他界観念を考察したからである。しかしこの二巨人のあと民俗学者がそれを深化させたかといえば、そうでもない。南方熊楠や宮本常一も日本固有の他界観に何ら触れるところがない。これは、彼らが南島民の世界観に触れて啓発されることがなかったためと思われる。ここにおいて今さらながら沖縄を知ることの重要さを痛感する。
 
 南島民は、遠くに白い礁線を描くところまでを、自分たちの生活する日常空間と捉え、その白い線から先は海神(わたつみ)の支配する他界、非日常空間として理解していたという。
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▼国土地理院 「地理院地図」
24.357682, 124.247785
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dendenmushi.gif沖縄地方(2014/02 記)

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タグ:沖縄県
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コメント 2

だいだらぼっち

柳田国男の話、勉強になりました。ぼくは柳田国男が石垣島に上陸したのは1921年(大正10年)1月23日で、島には5日間滞在したと思っていました。碑によると石垣にやってきたのは1月24日で、1週間滞在したのですね。このとき、柳田は石垣から登野城、平得、大浜、宮良、白保とまわって、また石垣港に戻っています。おもに御嶽と石敢当をみてまわっています。「八重山新報」の歌もはじめて知りました。ありがとうございます。石垣をたったのは1月31日ということですね。このとき柳田に同行していたのは、気象台石垣島測候所(現石垣島気象台)所長の岩崎卓爾でした。「八重山新報」のことはよく知らないのですが、おそらく岩崎卓爾と関係があったのではないでしょうか。柳田の歌がこの新聞に掲載されたのは、おそらくそのためですね。それにしても、白保の歌で、柳田が、のちに最後の著作『海上の道』で熱弁をふるうことになるタカラガイに早くも言及しているのは注目すべきことですね。柳田は沖縄本島の首里で1月7日に旧王家の尚家をたずね、そのとき王家のコレクションである宝貝をみせられて、心躍らせています。そのことが白保で見つけたタカラガイの感動とおそらくつながっているのでしょう。
by だいだらぼっち (2014-03-02 07:33) 

dendenmushi

@そう、わたしが見た資料でも五日とありましたが、なかなかこういうのも整合性がなくて困ります。そこで、ここでは「1月末の一週間程度」としたわけです。
測候所の所長というのは、当時の石垣ではいちばんえらい人だったみたいですね。「八重山新報」に載ったというのは、おっしゃるとおりその関連だったのでしょうね。現在石垣には「八重山日報」というのがありますが、これは右寄り意見の代弁者をもって任じているようです。
御嶽については「石垣島だより 35」で、石敢黨については「石垣島だより 36」で、柳田説もちょっとだけふれています。
そのほか、屋根の話でも使いましたが、柳田の石垣でのメモについては、『南島旅行見聞記』(酒井卯作編 2009 森話社)が参考になりました。これは、「書いた本人も後で読めないような走り書きのメモ」が、伊東屋で買った手帳に残されていて、それを起こしたものだそうです。
もっとも、柳田国男もページを割いている真乙姥の話は、オヤケアカハチと長田大主がらみなので、当地ではかなり有名な伝承のようですね。
長田大主については、またどこかの岬めぐりで書きたいと思っています。
by dendenmushi (2014-03-03 16:26) 

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