982 松崎=本吉郡南三陸町歌津(宮城県)タクシーと災害臨時バスで館浜〜石浜間を往復する途中にある [岬めぐり]
電子国土にはその地名表記はないのだが、Mapionでは長須賀海水浴場としている浜の奥は、もともと低湿地帯だったようだ。そこらには大沼という字地名があり、小さな池と細流が電子国土にも示されている。
タクシーのドライバーが、ここは自衛隊がやってきて、流された道路をとりあえず車が通れるように、土を運んできてつくってくれたのだと教えてくれる。その道路の写真は、帰り道で町民バスで通過したときのものである。
南三陸町の町民バスは、大津波前から運行していたが、被災後から現在までは「災害臨時バス」というのが、正式な名前である。
往きのタクシーは、それとは知らぬ間に館浜を過ぎ、大沼の低地に入って行く。
その道が、歌津崎の付け根にあたる部分を横断していて、これを渡りきった東海岸に飛び出ているのが、松崎なのだ。
馬場とか中山とかいう地名表示も、電子国土の地図にはあるが、その付近の漁港というのもおこがましいような小さな防波堤のある船溜まりが、松崎を風除けとしている。その向こうに、先っちょが岩礁とその上にかぶさるように松の木があるのが、ちゃんとわかる。
旧歌津町は、西は登米市と境を接する山を北の背として、南は琵琶崎、東がこの松崎までの横長の地域である。JR気仙沼線から東に、ぎざぎざでこぼこと形容に困るような形で突き出ている歌津の半島は、さほど大きくもなく、重要視するものではなかったのか、とくに歌津半島とは呼ばれていない。
「歌津」とは、またいい名前だな。
この名前の由来については、ちゃんと伝承があって、アイヌ語の「オタエトゥ(砂の岬の地)」が転訛して「ウタツ」になったという説と、北の気仙沼市との境界にある田束山の位置からは、卯辰(う・たつ)の方向(東南東)に村が開けたからだという説があるようだ。
南西方向に開けた田束山は、奥州藤原氏ゆかりの経塚がある古くからの山岳信仰の霊山で、と町のホームページはいうが、なるほど神社マークのある山頂付近は、人の往来の盛んだったことを示すような点線の道がめぐっている。
そこから眺めると、歌津の半島と歌津崎と松崎と、この次に向かおうとしている末の崎も、全部一望できるのではないか。前の歌津崎や館崎のように、そんな写真も期待したが、それは期待はずれだった。
松崎の写真は、帰りの町民バスの車窓からのものを含んでいる。大きな三角に出っ張る松崎の裾を越えて、北側に出ると、そこにもまた同じような漁港と堤防があって、松崎の北側出っ張りの一部が見えている。
松はやはりこのずんぐりした岬の出っ張りで、特徴的なものだった。松崎の北にあるのが、石浜の集落である。
防波堤の北には、急な石段の上に赤い鳥居が立っていたが、その階段の下の両脇には、上がザックリと折れて下の部分だけ残った木の幹が、白く塗られて対になっていた。
これも“奇跡の”とはいかなかった二本松かなにかであったのだろう。場所を選ばない津波は、リアス式海岸のでこぼこ一帯くまなく、小さな入江と小さな谷間の小さな集落にも、ちゃんと押し寄せた。
家族もみな避難して無事だったという女性ドライバーが、歌津駅前から連れてきてくれのは、末の崎への道の入口。タクシーは、ここまでである。ドライバーが教えてくれた末の崎への道は、この神社の先から脇道に入って、丘を越えて行かなければならない。
「ずっと下って行きますからね」と“下り”を強調する。上るんじゃないのかなと思ったが、実際その教えのとおりだった。
▼国土地理院 電子国土ポータル(Web.NEXT)
38.725326, 141.565458
東北地方(2013/07/03訪問)
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