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□19:昭和20年・広島の夏の日=その7 キノコ雲も街を焼き尽くした火も消えてからもピカドンの死者は続き… [ある編集者の記憶遺産]

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14キュウリと焼き場

 どのくらいの時間が経ったのか。井戸に一時身を避けた祖父は、周囲の火が少し下火になるのを待って、祖母を探しに出かけた。そして、名のみが残る病院の跡で見つけた。誰かが祖母をそこまで運んでくれたらしいが、病院の機能はないに等しい。祖父は祖母を引き取って背負い、また戸板に乗せて、やっとのことで府中町まで引っ張ってきた…。
    ■
 それが、8月6日当日中のことなのか、翌日にまたがってのことか、よくわからない。
 祖父が原爆の話をしたことはなかった。その話を、もっとちゃんと聞いておけばよかったのにと、今になって思うのは、このときのこともある。
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 その当時、避難する人でごった返す市の周辺郊外では、どこでも同じような光景が繰り広げられていたのだろう。生き延びたものは、とにかく郊外へと逃げ出した。広島市に隣接し、府中町の南はずれに位置する外新開でも、市内から逃げてきた人で溢れた。
 府中町と広島市青崎付近の山陽本線の沿線には、鉄道教習所、鉄道官舎、国鉄アパートなどの施設が並んでいたが、それらの空間も、かろうじて辿り着いた瀕死の火傷者でたちまち臨時の収容所になっていた。広い講堂のようなところにも廊下にも、軒先にもたくさんの人が横たわっていた。
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 近辺に医者がわずかにいても、大勢の人を充分に治療手当てすることは、医薬品もない状態で、まったく望めなかった。組織的な救援の手は、まださしのべられていなかった。
 多くの人は、ただそこで命が尽きるのを待つだけ、という状態が続いていた。
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 祖母も、火傷のためその直後からほとんどずーっと、意識不明のような状態であったようだった。その時には、貸家が使えるようになっていたらしく、その一室に寝かされた祖母は、口をきくこともないまま、石のように横たわったままでいた。
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 マスコミが発達していない時代では、今でいう口コミ、ウワサが虚実を取り混ぜて、すべての情報を運んでいた。
 誰いうともなく、「ピカドンの火傷にはキュウリをすりおろして湿布をするとよい」といううわさが広まった。
 そこら中の畑からキュウリがなくなり、国鉄アパートから辺り一帯どこへいっても、キュウリおろしの独特のにおいが立ちこめた。
 もちろん、祖母にもキュウリの湿布をしたが、その甲斐はなかった。
 被爆から7日目に、祖母は息を引き取った。
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 府中町字外新開の山を、東隣の船越町のほうに入ったところに、大きな竹薮があり、その奥にみんなが“焼き場”と呼んでいた火葬場があった。
 祖母もここに運んで火葬にしたが、なにしろその混乱ぶりときたら、こどもの目にも明らかで、異様だった。次から次へと運ばれてくる死者の火葬は、ほとんど工事現場さながらで、片っ端からそこらに穴を掘り、どんどん処理していく。
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 ところが、薪が充分でない。死者が薪をかついでくるわけではないから、薪不足で充分に焼け切らず、黒焦げになったままのものもある。
 それでもかわまず、また新たな遺体のために、場所を空けてやらなければならない。半焼けの黒い頭蓋骨を黒い灰と一緒に掻きださなければならない。祖母のように棺に入れられてくるのはまれで、ほとんどは急造の担架のようなものや、梯子などにのせられて、ごろんと穴のなかに転がされる。そのようにして次々とやってくる。
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 あの日から、かなり長い間、来る日も来る日も、焼き場に続く土手の道は人の列が行き来し、その奥からあがる煙は絶えることがなかった。
 キュウリも底を尽き、そのにおいが消えた後も、人を焼くにおいだけは長くあたりに充満した。
 

15石の表面を溶かす光
 
 それまでの空襲は、グラマンのような艦載機が飛んでくるか、サイパンからB-29などの爆撃機が編隊を組んで飛来し、多数の焼夷弾を高高度から目標施設に落としていく、というのが普通だった。
 防火演習なども行なわれ、早いうちにある程度消火作業などをして、なんとか延焼を食い止めることが唯一の対策であり課題だった。しかし、東京大空襲などからは、目標などというのではなく、無差別にばら撒かれる絨毯爆撃が行なわれるようになっていた。ひとつの爆弾から燃える油が四方八方へ飛び散る式の焼夷弾が使われて、消火作業も追いつかないで、被害を拡大した。
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 原爆は、それまでの爆弾とは多くの点で異なっていた。まず、たった一発で広い範囲に深刻な被害を及ぼす。その爆発のエネルギーの半分はものすごい爆風となって街をなぎ倒した。それと同時に、高温の熱線と放射線が人も家も焼き尽くした。
 その閃光は、一瞬にして鉄も花崗岩もガラスも溶かした。
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 広島に、いたるところに残されていた、原爆被害の証拠物件は、復興の過程でだんだん消えていったが、比較的後々まで現地に残されていたものに、電車通りに面した銀行の開くのを待ってか、石段に腰掛けていた人の影が、熱線によって石に焼き付けられていた跡があった。
 いまは、それは原爆資料館にあるそうだが、きっとその影も薄れていることだろう。
 寺町にあった菩提寺の墓は、その閃光によって、御影石の墓石はそのツヤを失い、触れば崩れるようにヒビ割れし、角が落ちて丸くなっていた。
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 戦争の悲劇には限りがない。太平洋戦争では「本土決戦」を叫ぶ軍部をかわして、ぎりぎりのところで「終戦という名の敗戦」でやっと幕を引くことができた。
 だが、それもあまりに遅く、昭和20年の終戦の年だけでも、東京大空襲、沖縄戦、各地方都市空襲、そして広島・長崎、さらに外地に放置された人々を含めて、実際に前線に赴いた兵士だけでなく、多くの一般市民が犠牲になった。
 この悲劇をもっと早く、終わらせることはできなかったのか、そう思う人が大勢いても当然である。
 
 
16原爆ドーム・負の世界遺産
 
 「ピカドン」。原爆のことは、広島ではその後ずーっと一般にそう呼んだ。ピカッと光ってドンときたからである。張本勲さんのことを、前に書いたのは、彼もテレビでそう話すのを聞いて、これぞ広島の人ならではの「ピカドン」だなと思ったからだ。
 毎年、広島カープの試合日程は、8月6日のホームでの開催を避けるようにして組まれるが、この日は何度も「宮島さん」が歌われた。それは2012年8月5日、マツダスタジアムでの広島対阪神戦の始球式に、現役時代に着ることはなかったCarpのユニフォームを着て、張本さんが登場した。彼も、長いこと被爆者であることを公にしないでいたが、テレビで若い人が原爆なんて知らないというのを見て、積極的に原爆を語るようになった。
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 ニュース(2005年の)によると、被爆後外国から最初に調査に入ったのは、アメリカ軍ではなくスターリンの指示を受けたソ連の駐在武官二人だった、という。二人は、8月の20日頃に、広島から長崎に入っていた。早くもそれが戦争のための兵器というより、世界戦略のカードであったことを証明していた。
 彼らは、大きな爆弾が落ちれば、相当大きな穴が開いているはずだと予想して広島にやってきたそうだが、案に相違して見渡す限り真っ平らで、穴などどこにもなかった。
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 いわゆる爆心地は、太田川が本川と元安川に分岐するあたりとされている。川がつくる中洲をつなぐためT字型をした相生橋がかかっており、その東詰めに爆心地を記録する原爆ドームがある。
 爆心地なのに、この旧産業奨励館のレンガ造りの建物のドームが崩れ落ちずに残ってきたのは、猛烈な爆風も真上から受けたために、倒壊しなかったのだといわれていた。
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 たった一発の新型爆弾で、ピカッドーンと一つの街を消し去る。その目的からすれば、この爆心地、投下地点の選び方は、理にかなっていた。三角州のほぼ中央で、県庁も市役所もお城も護国神社もデパートも新聞社も繁華街もすべてほぼ半径一キロ程度にすっぽりと入り、しかもその周辺のデルタに広がる木造民家の八割方は、確実に影響下に入る。
 爆心地は、そういう位置取りにあった。
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 原爆ドームが世界遺産になったというニュースを聞いたときには、ちょっと意外な気がした。「ええっ? 世界遺産?」という違和感があったのだ。しかし、「負の遺産」としては初めての指定だったといわれてみれば、なるほど、そういうのもありかも知れんと思う。
 ところが、世界唯一の「負の世界遺産」をもつことになった日本も日本人も、その意義を充分に理解し、世界にアピールできているか、世界唯一の被爆国というポジジョンを生かした役割を果たしてきたかというと、どうもそれは…。
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 戦後しばらくして、爆心地に近い場所に、一軒の土産物屋ができた。
 主に、訪れるアメリカ軍の兵士などを相手に、原爆の記念品を売る店で、そこの主人が自らの身体中にできたケロイド(被爆した人の身体に残る火傷痕)を見せる、というのが話題になっていた。
 当時から、そのことにも批判があったが、その人はその人なりに自ら背負わされた負の遺産を生かしていたのだ。
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 長い間「じぜんじのはな」だと思っていたが、どうやら「ぜ」ではなく「せ」であったらしい。「慈仙寺の鼻」と呼ばれた中洲の岬は、ちょうど相生橋がかかる中洲の突端あたりを指し、ここにお寺があった。もちろん、ピカドンで一瞬に消えた。
 そこにも大きな土饅頭の供養塔ができ、いつの頃からか自分の中ではそれが転じて、河畔一帯に咲いていた「慈仙寺の花」に同化されていた。
 それは、毎年その日の訪れを告げる「きょうちくとう」の花である。


17焼け跡に立って

 2005年に朝日新聞で、被爆四日後の広島の写真というのが公開されたことがある。被爆直後の写真というのも、そう種類も多くはないが、瓦礫の広がる被爆後の写真は、ただ見れば単に荒涼とした風景で、それを見て、そこで繰り広げられた、凄惨な状況を、具体的にイメージすることができるという人は少ない。
 それは、その閃光と爆風と劫火を生き抜いた人が少ないからであり、今にそれを伝える材料も、どんどん風化しているからである。
 人は誰も、他人の体験を、自分の体験として100%理解することはできないのだ。
 「想像できる」という、人間のもつ優れた能力をフル回転させなければなにもわからず、させればやっとその悲惨さの百分の一程度が理解できる。
    ■
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 焼け跡写真の左の端には、ちょこんととんがった山が見える。あれは、広島湾に浮かぶ似島(にのしま)にある安芸の小富士と呼ばれる山で、標高278メートルしかないが、肉眼ではもっと大きく、比治山、黄金山と並んで広島のどこからも見えていたランドマークのひとつである。
    ■
 焼け跡の中央には数棟、かろうじて全崩壊を免れたいくつかビルの残骸がある。これらは中国新聞社、福屋百貨店、そして後に原爆ドームと呼ばれる産業奨励館などの建物の残骸だったはずである。
 爆心地からは直線距離にして、1600メートルも離れてはいない。焼け跡の写真でいうとわたしが生まれた家は、安芸の小富士と残った残骸の間にあたる。もし、そこが写った写真があったとしても、場所を特定することは不可能だ。なにしろ、目印になるものがほとんどないのだから…。
    ■
 火が消えると間もなく、すでにそこにはないはずの家の様子を見に行く祖父について、府中町から南竹屋町まででかけていった。
 猿猴川河畔の東洋工業の建物などは、残っていたが、それを過ぎてから先は何かに洗われたように見通しがよかった。
    ■
 見渡す限り、瓦礫というより、焼けた瓦が行儀良く敷き詰められて並んでいるような感じがした。
 それは、道だけが白々と開けていたからだろう。その感じは、被爆四日後の写真にみるのと、まったく同じだった。
 元宇品や似島が、手を伸ばせば届きそうなすぐそこにあった。
    ■
 道幅は、両側の建物が倒れてかなり狭まっていたのだろうが、通行には支障がなかった。まだ、人が大勢駆けつけて、組織的な救援や復旧にあたるという時期でもなかったようで、人影もまばらだった。
 広島全体が、まだショックで茫然自失状態だったような感じがした。もちろん、それは後から思ったことである。
    ■
 南竹屋町に近づくと、道端に赤い小型トラックが止まっているのが、小さな山のように見えた。赤いというのは、焼けただれて赤くなっていたのだろうか。タイヤもフロントガラスもなく、ただうつろな目をした残骸となってうずくまっている。
    ■
 家があったと思われるところには、あの「宮島さん」を歌っていた風呂場の厳島神社のタイルだけが、一部ぴょこんと焼け跡の中に飛びだして目立っていた。
 焼けた瓦を一枚また一枚とめくっていくと、粘土細工のいたずらのように、溶けてぐにゃぐにゃに変形したガラス瓶など、生活の用具がでてきた。
 そういうもののいくつかを、祖父は持って帰ったらしく、数年は府中の家の庭先にごろごろしていたが、いつの間にかなくなった。
    ■
 これが不思議で、偶然といえばそれもできすぎていて、つくり話のように聞こえるかもしれないが、事実なのだ。
 たまたまわたしが瓦をめくったところで、それらに混じって、家で遊んでいたおもちゃが、焼けてぐしゃぐしゃになってでてきたのを自分で発見した。
 この家を守る役には立たなかったが、あのブリキの戦闘機と消防自動車だった。
    ■
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 当時、「ピカドンの跡には70年間は草木も生えない」といわれた。
 今、いくつもの慰霊碑があちこちに点在する平和公園はじめ、広島の街や川縁には、緑が茂っている。100メートル道路に植えた、ひょろひょろの苗木も大木に成長した。焼け跡の写真からは、想像もできないほど、街は復興した。
 だが、南竹屋町に再びわが家がよみがえることはなかった。
                                (完)


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dendenmushi.gif(2005-08- 記・2012/08/07 So-net 改筆採録)

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きた!みた!印(35)  コメント(12)  トラックバック(1) 
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コメント 12

asty

今や少しでも知っている人が語らなければ埋もれてしまう。
そんな危機感を感じる年月が経ちました。
被爆者は年々減り、高齢化しています。それでも、まだ67年しか
経っていないんですよね。
近親者を亡くした人だけが細々と語り継ぐのではなく、広く伝え、
この悲惨さを忘れないことが、平和を守ることにつながると思います。
戦争は人間が起こす殺戮なのですから...。


by asty (2012-08-07 07:31) 

青竹

核兵器は戦争の抑止力になるという考えがあります。
しかしそれは核が無慈悲に多くの命を奪い、
その後の人の生き方までも変えてしまうからであることを
きちんと認識しなければなりません。
by 青竹 (2012-08-07 08:41) 

みぃにゃん

今の若い人にとって戦争は昔昔の歴史のお話みたいな感じなのかもしれませんね。いつでも起こりうる可能性があるという気持ちを持っておかないとダメだと思いました。貴重なお話ありがとうございました。
by みぃにゃん (2012-08-07 14:25) 

krause

とても貴重な話です、ありがとうございます。
by krause (2012-08-07 17:18) 

dendenmushi

@ asty さんは長崎なのですね。今日は、平和公園に行かれるのでしょうか。でんでんむしは、まだ長崎には行ったことがないのです。
今日は、遠くから黙祷させていただき、そのうちに、岬めぐりで行くときにはお参りさせていただきます。
祈る気持ちもまた、平和が続くことの力になるでしょう。
by dendenmushi (2012-08-09 06:17) 

dendenmushi

@青竹さん、おしゃるとおりですね。人間あってのこの世界ですからね。今でも、世界中に何十もの地球を破壊してしまうくらいの核兵器が「貯蔵」されているそうです。
およそ、滑稽な話です。ごていねいに広島、長崎と、二度もその災厄を被った、世界中でただひとつの国です。
そういう国らしいことをやる、そこから考え直してみたい…。そんな気がします。

by dendenmushi (2012-08-09 06:33) 

dendenmushi

@ みぃにゃん さん、広島特集ずっとおつきあいいただき、ありがとうございました。
そうなんですね。これは、すでに解決済みの遠く過ぎ去った歴史ではないのです。
今また、原発事故を起こして、その後の電力会社や国や政治の対応ぶりと経緯をみると、暗澹たる気持ちになってしまいます。
by dendenmushi (2012-08-09 06:42) 

dendenmushi

@ krause さん、おひさしぶりです。コメントありがとうございました。
本文にも書きましたが、わたしには8月15日の記憶が、すっ飛んでいるのです。原爆のショックが尾を引いていたのかどうか…。
だから、krauseさんがブログで書き留めるとおっしゃっている8/15の記録、ぜひ拝読させていただきたく、楽しみ(というのはヘンか?)にしています。
加藤陽子さんの『それでも日本人は戦争を選んだ』という本も、すぐ買って読みましたが…。
by dendenmushi (2012-08-09 06:54) 

右左あんつぁん

エキサイトブログに掲載された時もおんなじことを書いたかもしれませんが、運命の偶然には、やっぱり何か意味が込められているように思うのです。

おっしゃるように、死んで行った人たちは、言葉に表したくても出来ないのですから、生き残った我々が、たとえそれが拙い記憶であっても、伝えて行くべきなのだと思います。
あれから七〇年近くにも経ったというのに、まさか、放射線測定器を持ち歩くことになろうとは、想像すら出来ませんでした。

伝えることの難しさを痛感します。

by 右左あんつぁん (2012-08-14 17:43) 

dendenmushi

@ 右左あんつぁん さん、コメントありがとうございます。
エキサイトの初出は2005年でしたが、実はそれはその後で、タイトル、ID問題などいろいろあって全部削除してしまったので、どこにも残っていなかったのです。
そこで、今回So-netに採録しました。
これは、毎年でも繰り返して伝えていってほしいという、心強いご意見もいただきましたので…。
by dendenmushi (2012-08-15 05:44) 

朝比奈

悲しいです。何でそんなことになってしまったのか…
by 朝比奈 (2016-01-29 17:20) 

dendenmushi

@朝比奈さん、コメントありがとうございます。
ほんとうに人間の仕業は悲しいことが多いです。
by dendenmushi (2016-01-30 18:02) 

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