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□18:昭和20年・広島の夏の日=その6 8月6日あの巨大な極彩色の雲の下にこそ… [ある編集者の記憶遺産]

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11もう67年前になる今日のこと

 夜中に、身体中が痒くて痛い。泣きたい気持ちもあったが、我慢した。
 明け方近かった。顔中、身体中が腫れ上がるようにカブレていた。昨日のめずらしいぶどうのような実は、広島でいうカブレ、ウルシの実だったのだ。
    ■
 リヤカーを出す時間がきたが、これではとても南竹屋町まで連れてはいけない。そう判断した叔母は「今日は広島はやめて、日なたに出ずに日蔭でおとなしゅう遊んどりんさいよ」と宣言した。
    ■
 67年前も、朝から快晴で、早くも強い陽射しが照りつけていた。日の当たるところに出ると、顔がちりちりと痛い。やっぱり叔母の言うとおりだ。
 痒みをこらえて家の蔭にいると、爆音が聞こえてきた。
 飛行機だ!
    ■
 表に出て見上げると、絵に描いたような青い夏空に、銀色に光るきれいな飛行機が朝日を背にして東から飛んできた。大きい飛行機だった。きらきらと輝くその飛行機は、爆音とともに悠然と近づいてきて、そして頭の真上を過ぎていく…。
    ■
 家の西側にある丘の向こうに消えようとする機影を、もっとみたい。なぜか銀色の飛行機に引き寄せられるようにそう思った。
 そして、日なたに向かって数歩走り出した、その瞬間。
 辺りが真っ白い世界に変わった。すべての色が消えた。
 と思うまもなく、強烈な音が響き渡り、衝撃を受けた身体は、宙に舞い上がり、次の瞬間には地面に転がっていた。
 何が起こったのやらもわからぬ目の前に、爆風で家の玄関のガラス戸が倒れて砕けた。ほんの数センチの差で、ガラスを頭から被らずに済んだ。
    ■
 西の丘の向こうに、雲がにょきにょきと盛り上がる。
 よくみると、かなりの勢いで沸き出してくる雲は、赤や青や黄色や茶色や、いろいろな色が混ざっていた。
 極彩色のようにもみえた雲の巨大な柱は、たちまちに天を突き、見上げるにも首が痛くなるほどに迫っていた。そして、その先端は丸く傘のように開いていて、見上げる顔と頭の上を覆った。
    ■
 だが、そのときその雲の柱の下でなにが起きていたのか、それを想像する力はなく、雲とともに沸き上がる得体の知れぬ恐怖に、泣きわめくことしかできなかった。その後のことは、ほとんど覚えていない。
 ただ、自分はどこからきたのかを問うとき、充分な説明はできないながらも、案外この雲の下からきたのかもしれない、と考えることがあるのだ。


12理不尽な仕業の理不尽な結末

 この日の記憶も、はなはだ曖昧で、断片的だが、以下は記憶ではなく、後に記録を読んで知ったことだ。
 ボーイング社製の長距離戦略爆撃機B−29の名は、前にもちょっとだけふれたことがある東京大空襲で日本人にも知られるようになり、空襲を受けた各地では、まぎれもない“鬼畜米英”の象徴そのものとして映ったことであったろう。
     ■
 ナチスのゲルニカ爆撃で2000人が犠牲になったときには、アメリカ大統領を始め国際世論が非難した。しかし、その数年後にアメリカ自身が行なった、東京やそれに続く各地方都市の無差別爆撃で、そして広島・長崎の原爆で、何十万の一般市民を殺戮したことについて、国際的・外交的にその責任が問われたことは一度もない。ゲルニカにはピカソがあり、広島にはピカソがいなかったからばかりではないだろう。
 東京裁判がどうの戦争責任がこうのという話も、もう何度も蒸し返されているが、戦争というもともと理不尽な仕業の結末は、やはり理不尽なままに終わるものだ。戦争というものが、そういうものなのだ。
     ■
 B−29に対して、防空防衛能力はほとんどなかったと思われる。なすがまま、されるがままというのが、当時の広島の状況だったらしい。広島駅裏の山にも比治山にも、その他あちこちにあったはずの高射砲陣地は、高高度でやってくる爆撃機にはなんの役にも立っていないし、迎撃する戦闘機の姿もなかった。
     ■
 広島に来たアメリカ軍機は、原爆を抱いてやってきたB−29エノラ・ゲイだけではない。その前には気象観測の偵察機が来て下調べをしている。“朝早く警報がでて、それが解除になった後に、ピカドンが落ちた”という証言が多数あった。そして、科学観測のための装置を装備した二番機も一緒に飛んでいた。その後は別の飛行機が飛来して、ご丁寧にも投下後の写真撮影までしている。
     ■
 とことん用意周到に準備された原爆投下は、とことん計画されたとおりに行なわれた。高度約9,600メートルで東から侵入し、投下目標地点である相生橋の手前約5,600メートルのところで爆弾を切り離し、途中で落下傘が開くとそのまま西に流れ落ちる。機は真っすぐ進むと、爆発地点に入ってしまうため大きく旋回したと記録はいう。
     ■
 これも計算どおりなのだろうが、目標地点の上空約580メートルに達したところで、世界で初の原子爆弾は炸裂した。その下には、街と人と暮らしがあった。
 音は光より遅いので、人々の五官には、ピカッとしてドンと感じられた。多くの人にとっては、それを五官が感じる間もなかったであろう。だが、その方が五官で苦しみを感じながら死んでいった人より、まだましだった、と言えるのだろうか。
    ■
 その爆発の瞬間に、ピカドンは直径280メートルの大きな火の球を生み出した。その火球の“中心温度は100万℃、表面温度5000℃”だったと推定されている。
    ■
 爆発の数秒間、強烈な熱線を放出して輝いた。このとき地上に照射された熱線は、爆心の直下では約3000℃だったという。これで、屋根瓦の表面が泡立った。
 高温は、周囲の大気を超高圧で膨張させ、衝撃波を生じた。それは瞬時にあらゆる建造物を破壊し、強烈な爆風が吹いた。その風速は、爆心から500メートル地点では、秒速約280メートルであったといわれている。
 火傷を負った被災者でまだ命あるものは、みな水を欲しがったという。
    ■
   水ヲ下サイ
   アア 水ヲ下サイ
   ノマシテ下サイ
   死ンダハウガ マシデ
   死ンダハウガ
   アア
   タスケテ タスケテ
   水ヲ
   水ヲ
   ドウカ
   ドナタカ
    オーオーオーオー
    オーオーオーオー

   天ガ裂ケ
   街ガ無クナリ
   川ガ
   ナガレテヰル
    オーオーオーオー
    オーオーオーオー

   夜ガクル
   夜ガクル
   ヒカラビタ眼ニ
   タダレタ唇ニ
   ヒリヒリ灼ケテ
   フラフラノ
   コノ メチヤクチヤノ
   顔ノ
   ニンゲンノウメキ
   ニンゲンノ
            (原 民喜『原民喜詩集』から『水ヲ下サイ』)

    ■
 その日からその年の暮れまで、つまり昭和20年の間だけで、当時の広島市の人口のおよそ三分の一にも相当する、約14万人の人が亡くなったといわれている。
 
 
13運がいいとか悪いとか…

 それでも、爆心地から少し離れたところで、わずかながらあちこちに生き延びた人は、ほんのちょっとした偶然によって、しばらく命をとりとめることになる。
 偶然が生死を分けるということは、平常時でも例がないわけではないが、このとき広島の街では、いたるところにそれがあった。
    ■
 戸外にいた人は熱線を浴びて、一瞬のうちに炭のようになったり、皮膚や肉が焼けただれ、建物の中にいた人は押しつぶされた。
 倒れた家の下敷きになって、身動きならないまま焼死した人も多かった。
 放射能被害がどうのこうのというのは、それからまた後のことで、この災厄を、偶然なんとか生き延びた人の何割かは、その後原爆症で長い苦しみを味わいながら死んでいくことになる。
    ■
 夏の朝は早い。いつものように、比治山の被服支廠にでかけていた下の叔母は、場所が爆心地から少し離れていたこと、建物がレンガ造りの頑丈なものであったこと、などによって助かった。
 比治山が直接の爆風を遮って、ここから東側では比較的被害が少なかったようだ。それでも、ガラスの破片を浴びて、血だらけになって、混乱の中を歩いてやっと府中に逃げてきた。
 「黒い雨」は、広島中心から北西部にかけてのことで、どうやらこちら東側では降らなかったようだった。その話は、聞かなかった。
    ■
 南竹屋町の家の中にいた祖父は、倒れた家の下敷きになった。祖父は持ち前の豪胆さもあったろうが、やはり運がよく、どうにか火が回って来る前に自力で這い出すことができた。
 そして、辺りがすぐ猛火に包まれると、家の前にあった井戸の中に梯子を降ろし、それに掴まって身を沈め、猛火と焦熱をなんとか避けた。
 井戸の周りには物置きや蔵などもあったが、そこが密集地ではなく、多少の空地があったことが幸いしたのだろう。
    ■
 祖母は、運が悪かった。
 たまたま、この日の朝は、近所の知り合いの家に用があるといって、ちょうど出かけたところだった。途中の路上で熱線を浴び、半身に大火傷を負って倒れた。
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dendenmushi.gif(2005-08- 記・2012/08/06 So-net 改筆採録)

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きた!みた!印(33)  コメント(6)  トラックバック(1) 
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コメント 6

ハマコウ

67年前の今日広島で起きたこと
でんでんむしさんが 書かれたことが 突然いくつもの家庭で起こったこと
子どもたちに伝えていかなければと 強く思います
つらい体験を教えてくださりありがとうございます
by ハマコウ (2012-08-06 06:20) 

青竹

原爆が投下された瞬間に多くの命それも非戦闘員であった街の人々の
命を飲みつくし、それだけでは飽き足らず今度は放射能によって
放射線障害でまたたくさんの人が長く苦しみ蝕まれていきます。
どんな理由をつけても原爆を使用する正当な理由とはなりません。
この国も核武装へと進もうとする動きがありますが、為政者は現実に何が起こりどうなったのかしっかりと見つめなおして欲しいと思います。
by 青竹 (2012-08-06 11:06) 

みぃにゃん

今たくさんの原発を抱えてる日本も再度原爆の事を振り返ってほしいです。地獄絵図ですね・・。とても想像しがたい今では信じられないことです。
by みぃにゃん (2012-08-06 14:01) 

dendenmushi

@ハマコウさん、ありがとうございます。ぜひ浜松のこどもさんたちにも、伝えおしえてあげてください。よろしく、お願いします。

by dendenmushi (2012-08-07 05:54) 

dendenmushi

@青竹さん、ありがとうございます。そうなのです、どんなことがあっても、核兵器の使用は許されることでありません。
by dendenmushi (2012-08-07 05:59) 

dendenmushi

@ みぃにゃんさん、ありがとうございます。そうなんですね。愛川欽也さんなんかも、しきりに言っていますが、原発は原爆と根っこで同じなんだと…。
by dendenmushi (2012-08-07 06:03) 

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