802 戸島崎=東牟婁郡串本町大島(和歌山県)大船はみな軒下に停泊する“ここは大島むかいは串本” [岬めぐり]
戸島崎は、大島の集落の北側に出っ張っている、標高117メートルの山から流れ落ちる断崖の岬である。
集落の外れから数百メートルくらいしか離れていないが、海岸には道がない。そもそも、紀伊大島には海岸をめぐる道はどこにもない。岬の先端にある灯台も、山や崖の上ではなく岩の海岸に立っている。
岬の山塊の陰に隠れるようにしてある集落からは、どこからも戸島崎は見ることができない。戸島崎の写真は、すべて対岸の橋杭岩の間から眺めたもの。
紀伊大島の字地名は、東が樫野、南が須江、西が大島、となっている。西の大島地区が、元々の大島に人が住み着いた最初であったことは、想像に難くない。それは、串本の町と2キロほどの水道を隔てて向かい合う集落の様子からも明らかだし、『紀伊続風土記』ではでんでんむしの想像を裏付けている。
島の内に三ヶ村ある。大島浦は西に向かって村居し、その辰の方(※南東微北※)四十四町に須江浦があり、巽(※東南※)に向かって村居する。須江浦の東二十八町に樫野浦がある。三ヶ村をすべて大島という。しかし今、西に向かっている浦にのみ大島の名を負わせるのは三ヶ村の旧村であったのであろう。この村は海中絶巌の上に家居を作り、□下2〜3歩ならず。海底は甚だ深い。よって大船はみな軒下に停泊する。(KEY SPOT『紀伊続風土記』現代語訳 牟婁郡三前郷大島浦)
「海中絶巌の上に家居を作り」というのも、ちょっとすごいが、港の周りのわずかな平地は、後に埋立でできたものだろうから、昔はほとんど崖にへばりつくようにしてできた集落だったのだろう。今でも斜面に固まっている大島の集落へは、島を横断している40号線からそれて、細い道を下って行かなければならない。昔は、巡航船が往来した「向かいは大島」へは、今では出雲からくしもと大橋を渡って、道を下ってくる車とバスが、そのルートだ。
その道を下る途中では、水道を挟んだ対岸には、ちょっと斜めに並んだ橋杭岩が見えている。
また、橋杭岩の左手には、海岸と丘の上に白くて大きい二つの建物がある。海岸のほうが今夜の宿、浦島ハーバーホテルで、丘のほうが前回の時に泊まった、串本ロイヤルホテル。どちらも、一応温泉である。
その自然の地形から、海は深く軒下まで船が着けられるという、良港として栄えてきた大島と潮岬の間の水道を、橋杭岩の方向から南に見ると、出雲と苗我島と大島の間は、くしもと大橋で結ばれ、港から養殖へと大きく役割が変化してきた水域が広がっている。
牟婁郡には東西南北と四つもあり、それがまた和歌山県と三重県にまたがっているという、めずらしい地名である。郡名のほかでは岬の名にも縁があるが、それ以外では地名でもほとんど類例がないと思われる。
東牟婁郡と西牟婁郡の境目は、当然地形的には潮岬付近で分かれていたと考えるのが自然と思われる。現在では、東牟婁郡串本町が西でも東でも合併を繰り返して町域を広げている。このため、牟婁郡の東西境目は、大きく西へ食い込んでいるが、これももともとは西牟婁郡であった串本町が、2005(平成17)年に東牟婁郡古座町と合併するときに、東牟婁郡に変わってしまったからである。
紀伊大島も、先の別項にふれたように、もともと串本の潮埼荘ではなく三前郷として別の郡であった。そのため、近世でも東牟婁郡に属し一島で一村をなしていた。それが、1958(昭和33)年に串本町と合併したため西牟婁郡になり、その後串本町が東牟婁郡になって大島もまた東牟婁郡に戻った、という摩訶不思議な変遷を辿ってきたのである。
▼国土地理院 「地理院地図」
33度28分51.00秒 135度48分42.05秒
近畿地方(2011/10/06 訪問)
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