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800 樫野崎=東牟婁郡串本町樫野(和歌山県)トルコとの縁を結んだ岬はちょうど800項目だけどウソじゃないよ [岬めぐり]

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 トルコには行ったことがない。というか、行った外国は数えるほどしかないので、「トルコ“にも”行ったことがない」というべきか。
 トルコといえば、モーツアルトのピアノソナタ第11番第3楽章と、NHKテレビドラマ『阿修羅のごとく』(1979年放送:向田邦子原作というか、この後で小説化された)で使われていた実に印象的なオスマン軍楽隊の音楽と、“トルコ風呂”ということばと、それにかなりの親日国であるというくらいのことしか知らないのである。
 それが何年のことだったかはわからないが、何十年も前に「朝日新聞」に、トルコ人女子留学生(確か)の投書が載ったことはよく覚えている。トルコ人が大好きな日本で、いかがわしい施設の名称に自国の名前がかくも堂々とおおっぴらに使われていることを嘆き、改善を求めるという内容であった。
 それまでの“トルコ風呂”という名称が、ほぼ一斉に“ソープランド”に切り変わったのは、1984年頃で、それは「トルコ人留学生であったヌスレット・サンジャクリの抗議運動がきっかけ」であったと、ウイキペディアでは書いていたが、その留学生と投書者が、同一人物なのかどうかは知らない。
 ロシアの脅威に接してきたトルコが、親日国になった理由として、“敵の敵は味方説”がある。日露戦争で日本がロシアをやっつけてくれて喜んだからだという説は、かなり広く流布され浸透しているようだ。日露戦争の後、産まれたこどもに“トーゴー”という名前をつける人が多かったというくらいで、それも多分にあったのだろうが、これも実は少々違う。
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 日露戦争が始まる14年前のことだが、1890(明治23)年の9月の台風の夜、ここ串本大島は樫野崎の南にある船ゴラ礁に座礁して遭難したオスマン帝国の軍艦があった。587名人もの犠牲者をだしたが、崖を登って灯台に救助を求めた者があり、それによって遭難を知った村人たちは、こぞって生存者の救助と保護にあたり、乏しい食料をも投げ打って献身的な努力をした。結果、69人の生存者は、無事に秋山真之らの士官候補生が乗った日本の軍艦で、トルコに送り返され帰国することができた。その生存者の話から、大島の村人たちの精いっぱいの行為は伝えられ、トルコ人をいたく感激させたようである。
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 樫野崎沖に沈んだトルコ軍艦の名は「エルトゥールル号」といった。宮様外交の答礼として親善訪問のため来日し、帰国の途についたところで難にあった。木造の旧式船で、台風も予想されるなかでの出航は危険だと、日本側は止めたが、それをおしての船出だったという。東南アジアに広がるムスリムに、イスラム教盟主としての“大オスマン帝国”の、威厳と国力を誇示することも、皇帝からの命によるこの航海の重要な目的であったため、弱気や軟弱なところは見せてはならなかったのだろう、と思われる。
 それにしても、三本マストの木造フリゲート艦に600人以上も乗っていたというのが、いささか不審ではあるが…。
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 明治天皇もこの遭難事件に心を痛めて、政府に援助を惜しまぬように指示したといわれ、そうしたこともあって日本中から弔慰金が集まった。
 その事件でなんとか自分も役に立ちたい、そう思った日本人の一人が山田寅次郎で、彼は独自に義捐金を募る運動を起こし、それをもってトルコへ渡り、大歓迎される。時の皇帝にも拝謁し、その意を受けた結果そのままトルコに残って民間外交の窓口のような役目をすることになる。
 トルコでは、寅次郎は教科書にも載るくらい有名な日本人だというが、日本ではエルトゥールル号のことは、あまり語られてこなかった。
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 第一次世界大戦では、トルコはドイツについて、ちょこっと参戦して戦勝国となった日本とは敵対関係になる。第二次大戦中のトルコは、途中まで中立を守りながらも、連合国側の圧力もあって、枢軸国側の敗戦が決まりかけた頃に連合軍に加わり、戦勝国となっている。
 つまり、二つの大戦では、いずれも日本とは逆の陣営にいたのだが、地理的に離れていて、お互いが銃火を交えることがなかったことも、トルコの親日感を損なわなかったのだろう。
 1985(昭和60)年のイラン・イラク戦争のときには、イラクのフセインは、イラン上空の航空機に対する無差別攻撃を宣言し、イランに取り残された日本人の救出が危ぶまれたとき、トルコ政府がトルコ航空機を出してくれ、215名の日本人は無事帰国できた、というできごともあった。そのとき、トルコの大使は「トルコ人なら誰でも、エルトゥールル号遭難で日本に受けた恩義を知っている」と答えたという。
 そんないわく因縁のある樫野崎を歩くと、やはりトルコだらけである。
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 樫野灯台口でバスを降り、一本道を北東へ歩いて行くと、じゅうたんを広げて干しているトルコ土産物屋や、イスラム風のトルコ記念館、そして巨大なオベリスクのような形をしたトルコ軍艦遭難記念碑が建っている。さらにその先には、トルコの初代大統領ケマル・アタチュルクの騎馬像まである。
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 こりゃまた、すごいものがありますね。
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 この像はもともと新潟県柏崎市のテーマパーク「トルコ文化村」のためにトルコ政府が寄贈したものだった。今はもう、次々に閉鎖されて、そんなものはなかったことにされかけていて、早く忘れてしまいたい人も多かろう。日本のあちこちに、変な外国の名を付けた村が、続々できていたことがある。柏崎のこの村も、そんなひとつだったのだろう。
 村が閉鎖された後、トルコ大使館としてはこの像がどこか倉庫の片隅に打ち捨てられているのは忍びがたかったのだろう。そこで、贈ったほうから串本町への移設を申し入れ、日本財団の協力で樫野崎へ移すことができた、といういきさつがあったようだ。
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 岬の先端に立つ樫野埼灯台は、今では少なくなった中に入って登ることができる灯台である。日本で最初の石造り灯台であるというせいなのか、あまり高くない。ずんぐりした低い灯台で、横に取り付けられた螺旋階段を経て灯台のぐるりを歩けるようになっている。
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 燈光会の看板にいう、“江戸幕府とアメリカ等4か国との間で結ばれた江戸条約で建設が決められた8灯台”というのは、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四か国と、観音崎(浦賀水道)、剣崎(東京湾口)、野島崎(房総半島南端)、神子元島(伊豆半島の東南東)、樫野崎(ここ)、潮岬(あそこ)、伊王島(長崎湾外)、佐多岬(大隅半島南端)の各灯台である。
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 樫野崎から北東方向、鰹島の遙か彼方に見えているのは、同じ東牟婁郡のうち太地町の梶取崎付近になろうか。
 トルコの軍艦を座礁させた岩礁は、今も白い波が牙をむいている。その沖には軍艦も眠っていて、これを引き揚げようという計画もあり、積荷などの一部は引き揚げられているのだという。タイタニックには比肩できないまでも、眠っているはずのお宝がそうさせるのだろうか。
 (2015年暮れには、この史実にのっとった映画『海難1890』が公開された。)

▼国土地理院 「地理院地図」
33度28分18.14秒 135度51分43.27秒
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dendenmushi.gif近畿地方(2011/10/06 訪問)

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コメント 2

ハマコウ

ここが有名な場所だったのですね

by ハマコウ (2012-05-31 06:05) 

dendenmushi

@ハマコウさん、そうなんです。でんでんむしも、書いたものでは知っていたこの岬に、やっと到達しました。

by dendenmushi (2012-06-01 05:32) 

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