日本最南端・最西端の八重山の重要港湾である石垣港は国境の港でもある(13) [石垣島だより]
島にとって最も重要な課題である物資の運搬は、飛行機よりもはるかに一度に積載できる荷物の量が多い船に頼るところ大である。また言うまでもないことながら、歴史的にははるかに長く輸送は船に頼ってきた。石垣港は、八重山地域の物資集散の要として、今では重要な役割を担っている。
この港が歴史に登場し始めるのは、やはり明治以降のこと、といってよいのだろう。
八重山の開拓と同時に始まった石垣の港の役割と必要性と重要性は、明治初期に西表島で石炭の採掘が始まったことで、一段とクローズアップされ高まったともいえる。
NHKのドラマ『坂の上の雲』では省略されていたが、日本に近づいてくるバルチック艦隊を発見したのは、信濃丸より石垣島の漁民のほうが先だった。彼らはそれを本島に知らせるのに船を出すが、結果的に間に合わなかった。そのため、歴史に残ることもなかったが、司馬遼太郎の原作では、このことを書いている。その頃は、まだ港も舟もお粗末なものであったろう。
大正の末期になって、石垣港に初めて木造桟橋が建設されたという記録があるが、昭和11年に初めてコンクリ-トの桟橋ができた。その写真が、石垣市港湾部港湾課のページに残っているが、陸地から一本の長い桟橋が海に向かって伸びているだけであった。
そこでは、あわせて“昭和47年復帰当時の石垣港”、“昭和52年浜崎町地区造成中の石垣港”の航空写真が並べられている。
それをみると、復帰当時にはすでに美崎町の三角地帯と、それに隣り合う新栄町の造成も終わっている。浜崎町は、現在の石垣港の中心埠頭にあたる。
戦中戦後、琉球政府時代と本土復帰後を通じて、本格的な埠頭と港湾の本格的な整備が進められてきた結果、現在のような、1万トン級の貨客船が接岸可能なバ-スを備えることになる。
現在では、本土や沖縄本島からのフェリー航路が旅客の扱いが廃止され、貨物のみになっている。これは、航空機の影響だろうが、そのためフェリー埠頭からの旅客フェリーの定期運航は、与那国航路以外はなくなったようだ。
だが、石垣市では将来を見込んでか、国内外からの大型旅客船寄港にも対応できるよう、サザンゲートブリッジでつなぐ沖合には人工島ができ、整備を進めているようだ。この港付近は、トライアスロン世界大会の公式コースにもなっている。
この港で忘れていけないのは、中国ならびに台湾とのつながりである。
昔は石垣島と台湾を結ぶ船もあったし、中国と台湾の船による一時寄港利用も盛んに行なわれ、港内や港外に中国船が錨を下ろしていたものだが、それは中国と台湾の関係が微妙に変化してきた今では、もう意味もなくなっているのだろうか。
日本最南端・最西端の八重山の重要港湾は、国境の港でもある。
沖縄地方(2012/01/11 記)
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