番外:遮光器土偶のふるさと・亀ヶ岡遺跡をやっと訪ねた=前編(青森県つがる市木造) [番外]
最初にその写真を見たのは、いつの頃だったのか、今となってはもはや判然としない。とにかく、強烈な印象を受けたのはそれまで知っていた埴輪とはまったく違うド迫力に溢れていたからで、以来忘れられない。ホンモノ(あるいはすでにレプリカに置き換わっているのか)は上野の国博で何度も見たが、どうしてこんなモノが、日本の東北の津軽半島の片隅で埋もれていたのだろう。
そんな思いをずっと引きずっていたのは、安東氏の十三湊や、三内丸山遺跡や、偽書騒動で曰く付きの『東日流外三郡誌』など、ふしぎな光芒を引きながら輝いている津軽の古代史への興味がつきないからでもあった。いつかその出土地である亀ヶ岡を訪ねてみたいと思っていた。この付近はこれまで二三度通り過ぎているのだが、なかなか遺跡まで訪ねることができないでいたので、今回はなにがなんでも行くぞーという意気込みであった。
立佞武多(たちねぷた)で有名な五所川原に着いたときには、立佞武多の館はすでに閉まっていたが、駅の側にある格納庫の大きさからは、充分にその壮大さが偲ばれるし、道路脇にはそれぞれの立佞武多の姿をアピールする柱のような杭のようなものが並べてある。
青森の短い夏を彩るネプタやねぶたは、なんとなくそんなこの地域独特の歴史的な情念とも、無関係ではないような気さえもしてくる。
五所川原のホテルに泊まって、翌朝駅前の弘南バスのターミナルから小泊行きのミニバスに乗る。この長い路線は、本数も決して多いとは言えないが、ちゃんと亀ヶ岡で降り、十三湖で降りても、それぞれ次のバスに乗継いでその日のうちに小泊まで到達することができる。バスや電車というのはこうでなくてはならない。まことに、ありがたいバス路線である。
ただ、やはり利用者がそう多いわけではなく、ここも補助金その他でなんとかやりくりをしているのだろう。平野の中に走り出すと、町の中をつなぎながら、少ない乗客を拾いながら走る。
遮光器土偶を掲げているというJR木造の駅は通らないが、いちいち“木造○○”と名乗っている町の中にもこんなものがあったりする。人家の固まっているところをちょっとはずれると、もう一面の津軽平野である。
日本地図を眺めていて、ここはいったいどんなところだろうと思う場所がいくつかある。この津軽半島の西海岸付近も、なかなかふしぎな場所のように思えていた。七里長浜もそうだが、まだ砂浜の海岸がエンエンと続く風景は、だいたいどこも大差がなくイメージの範囲内である。
ところが、27キロにおよぶ七里長浜の陸地側は、大小無数の湖沼と人工的な溜池と自然の湿地帯と、30メートル前後の丘陵地帯と、その間に荒地が続きところどころ田畑と集落がばらまかれたようにある。細い道が海に向かって流れているが、尻無川のように海に届く前に消えているものも多い。
こんな地形は、ほかに日本中探しても同じようなところはあるまい。
いくつ目かの“木造○○”は、木造館岡であった。十三湖までの半分の道のりを来たことになる。運転手さんに亀ヶ岡遺跡の記念館のようなものがあるところで降りたいのだがと尋ねると、ちょっと考えていたが、郵便局のところで降りてしばらく行ったところで左の道を行けばよい、と教えてくれた。
電車やバスのダイヤ以外は、事前の下調べというものをまったくしないでんでんむしの岬めぐりは、そうした現地の人の情報が頼りである。
地図で想像もつかないようなところもあるので、実際に少しでも歩いてみなければわからない。しかしながら、2万5000分の1の縮尺で想像するイメージと、実際に人間のサイズでその中に放り込まれて歩いて見る景色とは、埋めるのに苦労するほどのギャップがある。道を歩く分には、たいして相違がない。
雨もしょぼしょぼ降るので、よけい暗い針葉樹の中の道を歩いて行くと、突然目の前に畑が開けてきて、“縄文館”の案内掲示もあった。そこからなおも誰もいない道を歩き続けて、やっと大きな池と縄文館の建物が見えてきた。
後でわかったことだが、この建物があるところは津軽藩主の二代目が城を築くつもりであったところだった。なるほど。だから“館岡”なのだ。城には堀が必要だ。そこで、池もその環濠として利用しようとしていたものだった。池の水面が想像していたのよりはるかに低く深いのは、それと関係があるのだろうか。
亀ヶ岡遺跡そのものは、この築城計画とおおいに関係があった。(後編に続く)
▼国土地理院 「地理院地図」
40度52分48.01秒 140度20分2.99秒
東北地方(2010/06/30 訪問)
そんな思いをずっと引きずっていたのは、安東氏の十三湊や、三内丸山遺跡や、偽書騒動で曰く付きの『東日流外三郡誌』など、ふしぎな光芒を引きながら輝いている津軽の古代史への興味がつきないからでもあった。いつかその出土地である亀ヶ岡を訪ねてみたいと思っていた。この付近はこれまで二三度通り過ぎているのだが、なかなか遺跡まで訪ねることができないでいたので、今回はなにがなんでも行くぞーという意気込みであった。
立佞武多(たちねぷた)で有名な五所川原に着いたときには、立佞武多の館はすでに閉まっていたが、駅の側にある格納庫の大きさからは、充分にその壮大さが偲ばれるし、道路脇にはそれぞれの立佞武多の姿をアピールする柱のような杭のようなものが並べてある。
青森の短い夏を彩るネプタやねぶたは、なんとなくそんなこの地域独特の歴史的な情念とも、無関係ではないような気さえもしてくる。
五所川原のホテルに泊まって、翌朝駅前の弘南バスのターミナルから小泊行きのミニバスに乗る。この長い路線は、本数も決して多いとは言えないが、ちゃんと亀ヶ岡で降り、十三湖で降りても、それぞれ次のバスに乗継いでその日のうちに小泊まで到達することができる。バスや電車というのはこうでなくてはならない。まことに、ありがたいバス路線である。
ただ、やはり利用者がそう多いわけではなく、ここも補助金その他でなんとかやりくりをしているのだろう。平野の中に走り出すと、町の中をつなぎながら、少ない乗客を拾いながら走る。
遮光器土偶を掲げているというJR木造の駅は通らないが、いちいち“木造○○”と名乗っている町の中にもこんなものがあったりする。人家の固まっているところをちょっとはずれると、もう一面の津軽平野である。
日本地図を眺めていて、ここはいったいどんなところだろうと思う場所がいくつかある。この津軽半島の西海岸付近も、なかなかふしぎな場所のように思えていた。七里長浜もそうだが、まだ砂浜の海岸がエンエンと続く風景は、だいたいどこも大差がなくイメージの範囲内である。
ところが、27キロにおよぶ七里長浜の陸地側は、大小無数の湖沼と人工的な溜池と自然の湿地帯と、30メートル前後の丘陵地帯と、その間に荒地が続きところどころ田畑と集落がばらまかれたようにある。細い道が海に向かって流れているが、尻無川のように海に届く前に消えているものも多い。
こんな地形は、ほかに日本中探しても同じようなところはあるまい。
いくつ目かの“木造○○”は、木造館岡であった。十三湖までの半分の道のりを来たことになる。運転手さんに亀ヶ岡遺跡の記念館のようなものがあるところで降りたいのだがと尋ねると、ちょっと考えていたが、郵便局のところで降りてしばらく行ったところで左の道を行けばよい、と教えてくれた。
電車やバスのダイヤ以外は、事前の下調べというものをまったくしないでんでんむしの岬めぐりは、そうした現地の人の情報が頼りである。
地図で想像もつかないようなところもあるので、実際に少しでも歩いてみなければわからない。しかしながら、2万5000分の1の縮尺で想像するイメージと、実際に人間のサイズでその中に放り込まれて歩いて見る景色とは、埋めるのに苦労するほどのギャップがある。道を歩く分には、たいして相違がない。
雨もしょぼしょぼ降るので、よけい暗い針葉樹の中の道を歩いて行くと、突然目の前に畑が開けてきて、“縄文館”の案内掲示もあった。そこからなおも誰もいない道を歩き続けて、やっと大きな池と縄文館の建物が見えてきた。
後でわかったことだが、この建物があるところは津軽藩主の二代目が城を築くつもりであったところだった。なるほど。だから“館岡”なのだ。城には堀が必要だ。そこで、池もその環濠として利用しようとしていたものだった。池の水面が想像していたのよりはるかに低く深いのは、それと関係があるのだろうか。
亀ヶ岡遺跡そのものは、この築城計画とおおいに関係があった。(後編に続く)
▼国土地理院 「地理院地図」
40度52分48.01秒 140度20分2.99秒
東北地方(2010/06/30 訪問)
タグ:青森県
『東日流外三郡誌』とか安東氏とか どちらかというと
推理小説の世界のような、それだけ 余計に
ロマンを感じます。
by ☆はな (2010-10-18 11:20)
@とうとう浅見光彦にまで登場しましたからね、『東日流外三郡誌』は…。最近では、文庫本も並んでいましたので、かなり知られてきました。
ロマンですね。事実や史実にばかりこだわると、必ずすぐに行き詰まってしまう。フィクションというのは、そのためにあるような気もします。
高橋克彦なんかもこのあたりをテーマにいろいろ書いていまして、おもしろいですよ。SFとか伝奇とかに分類されていますけど。
by dendenmushi (2010-10-20 06:00)