SSブログ

191 和田岬=稲敷市浮島(茨城県)霞ヶ浦自然は回復できるのか [岬めぐり]

 『日本書紀』によれば、小碓命(おうすのみこと=後にヤマトタケルと呼ばれるようになる人物)が、東国を平定するため関東にやってきたときには、上総から海路で玉浦・葦浦というところに着き、そこで舟に鏡をつけて北上した、ということになっている。舟に権威の象徴としての鏡をつけるというのは、戦闘以前にそれ自体が効果的な示威行為だったのであろう。
 この、“玉浦・葦浦”という場所が、どうやら霞ヶ浦周辺ではなかったかと推定される。古代の霞ヶ浦は、当然現在の地形とは大きく異なるはずだが、葦が生い茂る入江がどこまでも広がっていたことだろう。
 和田岬という場所が、その頃からあったのかどうかはわからない。現在の地図では、かぎ爪のようなフック状の特徴のある形をしているが、山や丘があるわけでもないし、古代からその地形をそのまま保ってきたとは思えない。

 このあたりの地名は「浮島」という。おそらくは、そうした葦の浮島が点在していた、そんな景色だったのだろう。葦の穂の先にぺったりと広がる和田岬を見ていると、ふとそんなことまで考えてしまう。

 この和田岬は一帯が松林の公園になっていて、周回道路も整備されており、道には二台のバンが停まっている。それぞれ車に道具一式積み込んでやってきた本格的な釣り人が、釣り竿を何本も湖畔に並べ、大きな網を構えている。ほかのところでもそういうのをよく見かけたので、霞ヶ浦の堤防からの釣りは、どうもこんなふうに一人で何本もの竿を出すのが、普通らしい。
 淡水魚だろうから、コイやフナなのか。なにが釣れるのだろう。あんまりお魚には詳しくないし、釣りも海で遊び程度しかやっていない。渓流釣りはやったことがないし、釣った魚を食べるでもないルアーとかいうような釣りに至っては、さっぱりわからない。霞ヶ浦といえば、昔はワカサギ漁が有名だったが、いまでは随分と数も減っているという…。

 それで思い出した。先頃、天皇陛下が、「琵琶湖のブルーギルの繁殖には心が痛む」と、わざわざ自らの責任に言及されるような発言をされた、という“事件”があった。たまたまその会議のテーマに因んだものだったからだろうが、皇太子時代にアメリカの訪問先のシカゴでブルーギルを寄贈され、研究用にと水産庁にゆだねたということがあったらしい。それが、琵琶湖の研究機関に分与され、そこから湖に逃げ出した魚が異常繁殖をして、漁業にも生態系にも、大きな影響を与えている。
 バスやギルなど外来魚が、昔からいた固有種などをどんどん食い尽くしてしまうという被害については、琵琶湖だけでなく全国どこでも同じ悩みがあるらしいが、霞ヶ浦も例外ではない。外来魚だけでなく、霞ヶ浦ではカワヒバリガイという“外来貝”による水質汚濁の被害まで心配されているという。

 よくいわれていることだが、自然というのは壊すのは簡単だが、維持し守るのはなかなか大変だし、いったん壊したものを元通りに復元することは至難なのだ。
 国土交通省は、コンクリート護岸で塗り固めてきたこれまでの行政を反省し、できるだけ葦原(これが水を浄化している)などの自然の岸辺や川辺を取り戻すことが望ましいということは、認めざるをえなくなっている。
 しかし、現実の問題としてはそれがどの程度まで進んでいて、あとどのくらいすれば達成できるのかは、まったく誰にも計画できず見当もついていないようだ。一方で、防災上などとの兼ね合いもあるだろう。
 あるいは、役所としては、必ずしも全部をそうして自然に戻すことなど、はなから考えているわけではないのであって、ただ重要なことは、一部で試験的な努力はしている、といえることが必要なのだろう。きっと、そんな程度が実情なのだろう。

 この和田岬周辺でも、人工的な堤防を湖面に突き出させて、葦などの水辺の植生を回復させるための足がかりにしようという試みや、石の堤防の間に砂浜をつくろうということも行なわれていた。確かに、ここの砂浜は霞ヶ浦ではめずらしい。全部を調べたわけではないのでわからないが、ここ以外にはないのかもしれない。
 だが、この人工砂浜というやつは、どうもつくりものめいていて、どこでも、いつまでたっても、なじまないままでいるような気がする。
 砂浜の向こうに筑波山。葦原の縁取る霞ヶ浦。こういう景色が、あちこちでみられるような日は、いつかやってくる、というわけではないのだろう。きっと…。

▼国土地理院 「地理院地図」
35度58分28.88秒 140度26分59.12秒
191わだみさき-91.jpg
dendenmushi.gif関東地方(2007/11/26 訪問)

@このブログは、ヘッダー、サイドバーをも含めた、全画面表示でみることを大前提としています。

にほんブログ村 その他趣味ブログ
その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ

タグ:茨城県
きた!みた!印(6)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

きた!みた!印 6

コメント 2

George

はじめまして。でんでんむし様の岬めぐり、美しい画像をみながら友人達と拝見させて頂き、非常に幸せな気持ちになりながら会話が弾んでおります。
ところでどうしても再取材頂きたいことが御座います。
霞ヶ浦の岬です。
昭和40年代までは霞ヶ浦には多くの砂浜の水泳場があり、南岸では馬掛の不動浦から大山まで約4km、飯出から西の洲を経て和田岬を回り、原まで6km全部砂浜で、北岸の玉造町の手賀から、明30年代ににコンクリート護岸が造られた突端部分を除いて牛堀鳴津浜の永山に至るま14kmは砂浜ったんです。葦の風景は土浦や高浜、潮来等各地にありますが、水が汚れていた都市部の話で、三又沖と呼ばれる広い霞ヶ浦はほとんどの場所で砂浜だったのです。子供の頃学校からも水泳の授業で泳ぎに行きました。
葦は霞ヶ浦が汚れてきた昭和46年以降、水に溶けた栄養によって各地を覆い始め、以前都市部の湾だった土浦入、高浜入、江戸崎入、あるいは潮来の河川部以外にも一時全て覆われてしまった時代が訪れました。
でも霞ヶ浦沿岸住民にとっての霞ヶ浦は海であり、砂浜であり、憩いの浦であります。
だから東京から見下ろした霞ヶ浦ではなく、今でも砂洲に、夏の拠り所を求めて、昔を懐かしみながら集う人々がいることを見ていただきたいと思います。
http://hal7.net/mukashibeachindex.html
それから私は中型の高速調査船を持っておりますので是非ご乗船頂きたいと思います。未だ寒くありませんし是非お越しください。もちろん無料です。土浦発
by George (2010-10-19 22:02) 

dendenmushi

@Georgeさん、ごていねいなコメントありがとうございます。「調査船ガイア」ぜひ一度乗せていただいて、霞ヶ浦の岬の再訪総まとめを、ぜひやりたいですね。
 ホームページを拝見しますと、昔の霞ヶ浦の写真がいっぱい出てきて、すばらしいですね。歩崎水泳場の写真のモデルさんなんか、実に時代を感じさせてくれて、うれしいです。よくこれだけ集めたというか、残っていたというか…。
 でんでんむしが、初めて霞ヶ浦を具体的にイメージできたのは、あの今井正監督の映画『米』でした。
 それから何年か経って、実際にこの目で見た霞ヶ浦は、汚染が始まっていた頃で、水も汚れていたという記憶がありましたが、岬めぐりで訪れたときは、とてもきれいになって、青い霞ヶ浦がとても印象に残りました。
 でんでんむしの岬めぐりは、しょせん通りすがりの勝手気ままな記録なので、地元の方々の眼からみればいいかげんなことも多いと思います。その点は、どうかお許しください。
 地図上にある岬は、涸沼以外はひととおり済んだ(ことにしている)のですが、ぜひほかにもこんなところがあるといったこと、補足するべきところなど、再取材したいですね。
 そのときは、よろしくお願いいたします。
by dendenmushi (2010-10-20 06:53) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました