192 西の州岬=稲敷市浮島(茨城県)それは東京タワーと同じ頃だった [岬めぐり]
霞ヶ浦周辺の地図を見ると、真っ直ぐな農道と水路で、四角にきれいに区画されたところが多いのが目につく。北部よりもむしろ利根川に近い南部に多く見られる特徴であるが、これはその田圃や畑が比較的新しく干拓などによって造成されたもの、と見ることができる。
和田岬から西へ向かう湖畔の道は、また砂利道に戻って、延々と続く。だんだん土手は高くなり、田畑は低くなる。ところどころ、ほんの10メートル足らずだけ舗装してあるところがあるが、これは決まってポンプ場や排水溝や水門がある場所に限られている。
「西の洲岬」は、和田岬から5キロほど西へ走ったところに位置するが、「西の洲」というからには「東の洲」があってしかるべきである。地名としてはそれは残っていないが、おそらくは香取の水生植物園がある付近から妙岐ノ鼻あたりにかけての広大な碁盤目(というのも言葉の綾で、実際には正方形ではなく長方形)に区画されたところがそうなのだろう。
それに対して西に位置する、新しい干拓地を「西の洲」と呼ぶことになったと推測される。数本の水路が流れていたこのあたりが干拓されたのは、まだそう大昔とはいえない昭和30年代も半ば頃なのだ。ちょうど、東京では東京タワーができていた頃(「三丁目夕日エイジ」ですな)、ここでは国営事業としての干拓が始まっていたことになる。
それが、干拓の名残なのかどうか,関係があるのかないのか、それもわからない。その砂がどこから運ばれてきてどこへ行くのかも知らない。そういえば,沖の湖面にはクレーンをつけた浚渫船のような平たい船が浮かんでいたが、それと砂がつながっているのかどうかもわからない。
ただ、西の洲岬付近には大量の砂でできた山と,道路を越えて砂を運ぶベルトコンベアやタンクや、露天の集積場が広がっていた。
およそその必要を認められていないのだろうが、全般にこの付近はその場所や位置を示す標識の類が、ほとんどない。たまにある小さな船溜まりを囲うフェンスにくっつけてある表示が,唯一の指標になる。
余所者がやってくることなど想定も歓迎もしていない、という雰囲気の道がどこまでも続く。GPSが欲しくなるのは、こんなときだろう。
ここからさらに西へ、また5キロ近く先の堂崎鼻まで、砂利を跳ねとばしながらひたすら走る…。
35度59分22.73秒 140度23分58.48秒
関東地方(2007/11/23 訪問)
いつもの岬めぐりの画像とはうってかわった荒涼とした風景。ビュースポットではないから訪れる人もまれでしょう。彼方に見えるのは筑波山ですか。
勤労感謝の日にこんなところを彷徨って……と思ったけれど、地理から干拓・灌漑事業の歴史を考察する眼力はさすがですね。
by knaito57 (2007-12-10 10:07)
@いやいや、こういうのもなかなかのビュースポットですよ。確かにやってくる人は、あまりいないようですが。
そうです。筑波山です。この日はきれいに晴れていたので,終日よく見えていました。湖もきれいでした。
by dendenmushi (2007-12-11 08:32)