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本土ではみんなが忘れている戦争の記憶を伝える沖縄でも異色の八重山平和祈念館(45) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 近年では、70年近くも前に終わった戦争のことなど、誰もまったく気にもせず、みんなすっかり忘れ去ってしまっているようだ。だが、それは本土だけのことなのだ。
 沖縄では戦争の記憶はいまもなお風化することなく、いまも語られ、いまも伝えられ、いまも忘れられていない。
 空襲は東京だけでなく各地方都市までおよび、広島と長崎に原爆は落とされたが、戦場の第一線からは後方にあった“銃後”の本土と違って、凄惨な地上戦が展開された沖縄では、戦争は兵隊がするものではなく一般島民すべてがそれを体験した。この違いは相当に大きく、沖縄をめぐるさまざまな問題の底辺で、すべてかかわっているように思えてならない。
 沖縄本島では、多くの戦跡や慰霊の場や祈念館があるが、その代表的なものが摩文仁の沖縄県平和祈念資料館であろう。平和の礎(いしじ)や国立沖縄戦没者墓苑などを含む平和祈念公園のなかにあるそれと、石垣市新川の具志堅用高記念館の斜向かいにある八重山平和祈念館は姉妹関係にあるようだ。だが、その規模やメインテーマは大きく異る。
 八重山の歴史については「石垣島だより」の30「捨て石とマラリアと強制移住は八重山の歴史を知るうえで重要なキーワードになっている」で、ごく簡単なまとめ(戦争にも歴史にも沖縄にも、あまり関心がないという人向けの駆け足なので、ぜひ一読しておいてほしいのだが)をしていた。
 そこでもふれていたマラリアが、八重山の祈念館のほうでは主なテーマになる。
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 フィリピンなどから北上してきたアメリカ軍の艦船は、八重山・宮古の島々を艦砲射撃はしたというが上陸はせず、そのまま本島に向かった。最初のアメリカ軍上陸作戦の標的は慶良間島で、それが1945(昭和20)年の3月26日で、それから始まる約3か月にわたる沖縄戦では、膨大な数の砲弾と銃弾が打ち込まれた“鉄の暴風雨”のなかで、軍人と民間人合わせて約20万の死者を出し、島の地形も変わってしまった。
 その後、アメリカ軍が先島諸島にきたときは占領軍としてであり、上陸するのは宮古島が1945年の8月26日、石垣島が3日遅れの29日であった。
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 凄惨な沖縄戦からは取り残された形にはなったものの、実はそのとき八重山では食糧不足と栄養失調、それにマラリアによって数千人の犠牲者を出していたのである。とくにマラリアは、駐屯していた日本軍による完全な“軍災・人災”で、当地ではそれを「戦争マラリア」と呼んでいるが、本土ではほとんどの人がそれを知らないでいる。
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 当時、八重山の人口は31,701人だったが、このうち半数を超える16,884人がマラリアに罹患し、死亡者3,647人で人口の1割以上が犠牲になった。日本軍の命令によって住民が強制疎開させられたが、その移住先がマラリアの有病地帯であったためだ。
 戦術的にもほとんど意味がない強制疎開は、石垣島全地域、竹富村、与那国村で行なわれた。たとえば、石垣島登野城と大川の約6,200人あまりは、同じ島内の白水に追い立てられ、850余人の死者を出した。白水という地名は現在の地図ではみつからないが、バンナ岳を越えてさらに北へ於茂登岳の麓に入ったあたりのようだ。そこらもマラリア有病地帯だった。
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 また、波照間島では、全島民1,590人が西表島の南風見、古見、由布島へ移住させられ、1,587人(罹患率がもっとも高かった)がマラリアに苦しみ、そのうち477人が死亡している。
 祈念館で配布される白黒コピーの資料には、以下のような波照間での戦争マラリアについての聞き書きが抜粋されていた。
 
 日本の敗戦が濃厚となり、米軍の矛先が沖縄に向けられた1945年3月末のことです。波照間島では日本軍の作戦で、全住民に西表島への集団疎開が命令されました。
 その指揮は、軍の特務機関から学校の指導者として派遣されていた山下(偽名)という軍曹によってなされました。島民は、軍の命令直下で日ごろの態度を一変させ、住民の意見を無視して軍刀を振り回し、強制疎開を命令している山下の姿を見て驚きました。
 日本軍の内に秘められた真の恐ろしさを見せつけられたのです。
 日本軍は住民を疎開させる一方、西表島へ運べない牛馬や山羊などの家畜を、米軍の食料になるおそれがあるという名目で徴用し、自軍の食料として確保しました。のちに、波照間島住民への強制疎開は、日本軍のさしせまった食糧問題を解決するためにとられた作戦だった、といわれたゆえんです。
 
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 皮肉なことに、八重山の有病地帯で猛威をふるったマラリアを撲滅するために尽力してくれたのは、戦後施政権をもっていたアメリカ軍であった。そのおかげでマラリアは急激に収束に向かうが、その後また1955年頃に琉球政府が行なった移住政策によって息を吹き返そうとする。それもまたアメリカのウィラープランによって完全に撲滅されたのは、1960年代になってからだった。
 
▼国土地理院 「地理院地図」
24.397522, 124.148185
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 こういうとき、なんも表記に愛想がない地理院地図はものたりない。市街地の地図はやはりZENRINソースのMapionに負けているのは残念だ。
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dendenmushi.gif沖縄地方(2014/04 記)

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タグ:沖縄県
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