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899 也良岬・土手崎・大波戸崎(能古島)=福岡市西区能古(福岡県)元寇の海はまた防人の海でもあった [岬めぐり]

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 文永の役の翌年には、クビライは再び使者を出して、日本が元帝国に服属することを迫る。この使者が乗った船は、長門の室津へ着く。現在の下関市豊浦町(川棚温泉の近く)なのだが、前回の博多湾の今津へではなく、そこからさらに西へ響灘を渡ってきたのは、意図したのか偶然の成りゆきなのかわからない。だが、戦争の現場と同じ海は避けたのかも知れない。
 いずれにしろ、今回の使者は、捕らえられて鎌倉へ送られ、斬首されている。これは、前回の使者が実質スパイとなり、日本での防衛体制など見聞をクビライに伝えたことがわかったためであった。
 文永の役で元に勝利したという意識は、逆にこちらから攻めたらどうかという意見も生んだが、実際には半島や大陸に攻勢をかけるだけの余裕はどこにもなく、結局今回も守りに徹することになる。前回の教訓から、博多湾沿岸に20キロもの石の築地をつくったが、それだけでなく、朝鮮半島南岸を襲って敵の動きを探ることも怠らなかった。(あえて飛躍して極端なことをいえば、その点ではこの故事から“神風”のみをことさら利用して、正しい情報にもとづく合理的な判断を欠いた昭和の軍閥とはおおいに違う。)
 一方、元はその翌年には、懸案の南宋を攻略することに成功している。それで、前回に勝る大軍を用意することができるようになった元は、今度は合浦から東路軍4万を派遣し、そのほかに明州から江南軍10万を送って、その両軍が壱岐で合流する、という日本侵攻作戦を立てた。
 1281年5月21日、弘安の役は、東路軍の対馬・壱岐への侵攻で始まるが、博多湾岸の防塁が効果を発揮して、上陸することができない。そこで、元軍は志賀島に上陸し、ここから海の中道を伝って侵攻するつもりだったが、海と陸から日本側の激しい攻撃にあって敗退する。
 情報が隔絶している当時の軍事衝突は、多くの場合異文化の衝突でもあり、戦闘の流儀も相互に異なっていた。元軍は組織的な軍隊の要素をすでにある程度備えていたと思われるが、対する日本側は騎馬武者が「やあやあ遠からん者は音にも聞け。近くばよって眼にも見よ」と言ったかどうかはしらないが、まだ名乗りをあげて一対一の勝負をしようとするところがあったはずだ。また、元軍は対馬などの捕虜の掌に穴を開けて、数珠つなぎに船につないだともいい、そうしたことにも元軍の新兵器にも大きなショックを受けたに違いない。
 そして、そこから得た戦術の練り直しもあっただろう。とにかく、この海域での海戦、志賀島での陸上戦でも、日本側は健闘したとみえる。
 元軍はしかたなく、壱岐に退いて、江南軍の到着を待つことになる。もともと合流するつもりだったのが、江南軍の出発が遅れていたのだ。その間に、元軍では疫病が流行し、3000人が死んだという。そのうえ日本の反撃にあって、壱岐も撤退せざるをえなくなる。
 この頃、ようやく江南軍が平戸に到着していたので、そこへ東路軍が向かおうとするのを、日本の水軍は多数の船を出して攻撃し、鷹島沖で海戦を挑んだ。海戦でも日本側が優勢に推移している。
 元が攻略した南宋の兵からなる江南軍は、数は多くても占領された国の屯田兵が中心で、士気も当然高くない。戦果もあげられないうちに日が経ち、7月も終わるところでついに問題の台風がやってくることになる。
 元軍の船はこれで壊滅的打撃を受け、ついに使える船をまとめて逃げ帰ることになる。鷹島には万単位の元兵が置き去りにされたという。
 南宋の兵は命は助けたが、多くの元兵は処刑され、3名のみをクビライに対する警告として小船に乗せて帰した。しかし、そんなことであきらめないクビライは、自尊心をいたく傷つけられて意地になったのであろう。三度目の侵攻を企てる。高麗の王も積極的で、造船などの準備までして計画を推進しようとしたが、兵を休めるよう進言する者があって延期になる。そうこうしているうちに、拡大しきったモンゴル帝国内では内乱が起こるようになり、結局第三次元寇はこなかった。
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 能古島の北部は、生の松原からは見えないので、これは志賀島から眺めたときの写真しかない。ぼんやりこの海を眺めていると、異国から攻めてきた軍船の群れが、浮かんでくるような気がしてくる。
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 志賀島から見ると、北の端の也良岬(やらみさき)と東海岸の土手崎がある。また、西海岸の大波戸崎も、也良岬の後ろに陰のようになって顔を出す。
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 弘安の役では、戦場にもなった志賀島の海で、外敵の侵入を必死になって防衛した御家人たちは、幕府の下知にしたがって参戦したものの、当時の習わしからして、戦の後の恩賞が目的でもあった。結果として、それは十分でなかったのだが、その過程が竹崎さんによる『蒙古襲来絵詞』という貴重な資料を残すことになる。
 だが、奈良時代の防人は、恩賞どころか、食料や武器は自分で調達しなければならないうえに、租税も免除されるわけでなく、その待遇はひどいものであった。この制度は、白村江の敗戦から予測された唐の侵攻に備えるためだったが、対馬・壱岐および九州沿岸の防衛のために、はじめは東国からはるばる徴用していた。
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 能古島の也良岬にも、防人が置かれていた。万葉集には、防人の歌がいくつもあるが、也良岬の防人の歌もある。
 能古の也良岬にある歌碑の歌
   沖つ鳥 鴨とふ船の 帰り来ば 也良の防人 早く告げこそ
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 その対岸にあたる志賀島にある歌碑の歌
   沖つ鳥 鴨とふ船は 也良の崎 廻みて遭ぎ来と 聞え来ぬかも

▼国土地理院 電子国土ポータル(Web.NEXT)
33度38分16.25秒 130度18分7.10秒 33度37分22.61秒 130度18分47.57秒 33度37分0.99秒 130度17分42.69秒
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dendenmushi.gif九州地方(2012/10/28〜30訪問)

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タグ:福岡県 歴史
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コメント 3

ハマコウ

おはようございます
元寇というとすぐに神風に結びつけてしまいますが
丁寧な解説から
武士の努力についても子どもたちが理解できるように努力しなければと思いました
by ハマコウ (2013-01-06 08:16) 

ロゼ

きれいな海の写真をありがとうございます。
by ロゼ (2013-01-06 20:12) 

dendenmushi

@ハマコウ さん、 ロゼ さん。コメントありがとうございます。今日はすみません長く書くことができません…。
by dendenmushi (2013-01-08 04:00) 

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