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1532 弁天が鼻=たつの市御津町室津(兵庫県)室津の遊女伝説には数々あるらしいがここに友君橋あり [岬めぐり]

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 『播磨風土記』には、「此の泊 風を防ぐこと 室の如し 故に因りて名を為す」とあるそうだが、賀茂神社の小山と藻振鼻の出っ張りが、長く折れ曲がった入江を抱え込み、北には嫦娥山が落ちてくる室津は、いわゆる天然の良港というものだったのだろう。
 嫦娥山の南西の端も、小さな丸い尾根が大浦の湾に突き出していて、参勤交代の行列も室津街道を通るときにはそこを越えて行ったものだろう。弁天が鼻は、元々はその丸い尾根の先端につけられていた名前かもしれないが、現在ではその下が広く北西へ伸びる港湾施設として埋め立てられているので、その岸壁の端に名がついているような格好になっている。
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 室津から西へは、瀬戸内海のでこぼこと小島や半島が多い。でこぼこが多いということは、陸路も決して楽ではなかったはずで、となるとここまで海路でやってくるのはうなづける。
 ここで船を降りたら、七曲りを越える道はなかったため、室津街道の小さいとはいえ山越えの道に入ることになる。船からいきなり山道というのは、ちょっと酷なような気もする。だが、室津街道を北へ正條宿まで行き、揖保川を渡しで渡って、そこから内陸の街道を東へ向かうということは、当時はまだ現在は埋め立てられている海岸線の一帯は砂浜で船はつけられず、道路もなかったからだろう。
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 この室津を海と陸の中継点とするルートは、かなり古くからあったらしく、万葉集にもこの付近を歌う歌があるという。大名行列や通信使ばかりでなく、当然廻船ルートもあったわけだが、そうした多くの船や人や物の出入りする港の繁栄から、遊女発祥の地と言われるようになったのだろう。
 前項ではカッコ書きで(一説によると、)と書いていたのだが、室津の遊女は実は古くからあり、確かに由緒正しいものだったらしい。室津の「遊女発祥の地」を確固たるものにしたのは井原西鶴で、その『好色一代男』では「本朝遊女のはじまり、江州の朝妻、播州の室津より事起こりて、いま国々になりぬ」としている。
 蕪村が「ひねもすのたりのたりかな」と春の海をよんだときには、四国讃岐への旅の途中で、室津でも「梅咲いて帯び買ふ室の遊女かな」という句を残した。
 その遊女に関わる伝説もこの地にはいくつかあって、それらを題材にした文豪の作品(谷崎の『乱菊物語』)もあるそうだが、そんな話のひとつを弁天が鼻の上を通る橋の名から知ることができる。
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 ヘアピンカーブで港の岸壁から弁天が鼻の上まで一気に登って行くようになっている橋は、現在では港に出入りするための主要道路で、その名が友君橋となっている。国道から橋へ入るところの橋柱には、大きな石に彫り込まれた絵がその遊女にまつわるひとつの話を物語っている。
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 でんでんむしもそんな話をはじめから知っていたわけではなく、ここへきてこの橋を見て、初めてその名前を知り、いったいこの絵はなんだろうと思って調べてみただけだ。
 それでわかったことは、目鼻のない人型の布貼り絵のような絵で表わされた人物は、法然上人と室津の遊女であった友君、ということだった。友君は、木曾義仲の愛妾だった山吹御前であるという。この人は派手な巴御前と違って常に日陰の道を歩んできた人らしく、義仲の死後の行方にも諸説があって、そのひとつが室津の遊女説なのだ。
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 橋の石柱に彫られた絵は、讃岐に船で流刑になって行く途中の法然上人の船を、彼女が小舟を出して教えを請うため訪ねている場面で、それに対して上人は念仏の功徳を説いて歌を送った。
 4年後に法然上人が許されて、その帰路に室津に寄ったときには、彼女は遊女をやめて仏道に入り念仏往生した後だった。その墓も今も室津の寺にあるという。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度46分8.92秒 134度30分4.98秒
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dendenmushi.gif近畿地方(2018/10/10 訪問)

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タグ:兵庫県
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