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列島の輪郭をなぞって電車とバスと徒歩で知らない土地を通り過ぎていく…=記憶遺産Part2-10 [ある編集者の記憶遺産Part2]

 なぜ「岬めぐり」などということを始めることになったのか、それについては、2009年に
 番外:なぜ「みさき」なのか?
という項目を立てて書いていた。このボタンを押してもらえばいいのだが、こう書いていてもリンクページに飛んで読んで、また戻ってくる人はおそらく10人に1人もいないだろう。

 そこで、これもまた重複感はあるが、要点だけをかいつまんでいうと、最初からはっきりとした動機やきっかけがあったというわけでもなくて、ただ漠然とした想いが積み重なって、だんだんと固まっていった結果、というしかないであろう。その漠然とした想いの中では、ふたつのことが大きな要因となっている。
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 そのひとつが岬とは名前がついていない福井県の東尋坊であり、もうひとつが和歌山県の潮岬であった。これらについても、それぞれ項目を設けて書いていた。
 053 潮岬=東牟婁郡串本町潮岬(和歌山県)いつかはきっとやってくる…
 726 東尋坊・雄島=坂井市三国町安島(福井県)「岬めぐり」の原点は“岬”はつかないココでした
 東尋坊も潮岬も、その場所との最初の接近遭遇は、まだでんでんむしが10代の終わり頃のことであった。北アルプスの山行きから広島へ帰る途中に芦原温泉に泊まり、翌日おまけで訪れた東尋坊の岩峰に荒波が打ち寄せる様は、瀬戸内海しか知らなかった身には、極めて感慨が大きかった。
 また、同じ頃、乗組員の一人だった叔父のつてで、特別に宇部セメントのタンカーに便乗させてもらう機会を得て、太平洋を行く船の上から遥かに小島のような潮岬を眺めていた。その時に考えたのは、自分の人生の中でこれから先、あの岬の上に立つようなことが、果たしてあるのだろうか、ということだった。
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 それがとにかく岬への興味の始まり・原点で、後にくっついてくるいろいろな理屈は、すべて後付けのものだと言える。
 日本地図を眺めていると、大きく目立つ出っ張りには、みなちゃんと名前がついている。街からは遠く離れた最果てのようにも見えるそこは、どんなところなのだろう。もっと細くみると、日本列島の海岸線にはもっともっとたくさんのでこぼこがあって、それぞれにまた名前がついているが、ついていない出っ張りの方がもっと多い。
 そうした岬の出っ張りの多くは、ほとんど誰も知らないし、誰も行かない。人が寄ってくる観光地のようになっているところもあるだろうが、そのほとんどは、人知れずそれでも常に風雪に耐え波浪にあがらいながら、そこで出っ張っている。どうしてそこだけ出っ張って、そんなに頑張っているのだろう。
 「ここに地終わり、海始まる」というロカ岬は、ヨーロッパの人にとってみれば確かに大陸の果てであり、自分たちの領分がここで終わってしまう感が強いのだろう。だが、周囲を海に囲まれた小さな島国である日本では、それともちょっと違うような気もする。
 岬の多くは、固い岩石が壁となり大きな塊となって、絶え間ない波浪の侵食に耐えているからで、その周辺に伴っている岩礁地帯や広く大きく湾曲した砂浜や断崖絶壁や段丘などとともに、日本列島の輪郭を形づくっている。
 そう思ってみると、岬をめぐるということは、この国の国土の形をなぞって歩くということで、知らない土地を初めて通り過ぎて行くという旅人感とともに、なかなかの味わいがある。
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 なぜ岬めぐりなんですか?という質問については、個人的な想い入れの強い東尋坊や潮岬を持ち出して答えようとするよりも、単純に「列島の輪郭をなぞって電車とバスと徒歩で知らない土地を通り過ぎていくのがとてもおもしろくて楽しいんですよ」、というほうが、納得性が得られるかも知れない。
 いつもご自身のブログに「読んだ!」ボタンの返信コメントを書いてくださるChinchikoPapaさんからは、今回もまた、「既存の交通機関のみを活用して、日本全国の「岬」をめぐる旅というのは前人未踏のオリジナルテーマで、誰にもマネのできない偉業だと思います。ぜひ、これからも日本中の「崎」「碕」「岬」「鼻」を、ときに埋め立てや開発、自然災害などで失われてしまったそれらも含めて、探査ご紹介ください。」との励ましをいただいた。ありがたいことだ。
 偉業かどうかは甚だ疑問だろうが、前人未踏のオリジナルテーマでありそうなことは、どうやらそう言えるかも知れない。ただ、全踏破ではない、行けないところもある、遠くから眺めるだけの遠望でもOKなどと、不徹底なところも多いので、マニアック度も減点されそうだ。
 しかし、岬めぐりだからと言って必ずその岬の上に立たなければならないということはない。むしろ遠望でないと岬の姿形もわからない、ということも多い。
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 岬なんてただの出っ張りに過ぎず、それを写真に撮って見たところで、どれもこれも似たようなもので、大した違いはない。それでも大きな岬の場合には、灯台があるとか、周辺が公園になっているとか、観光施設があるとかの違いもあるが、中小の岬になると実際、ぱっと見に見える形には大差がないように見える。
 だが、周辺の地形やその地の人との関わり方や、地域の歴史にも絡んでいたりして、よく見ていくとさまざまなことに思いは飛んでいき、書くことにはそれぞれ困らない。
 人との関わりが薄いところでも、その岩や石や地質に注目してみると、いろいろなことを雄弁に語っていたりする。ただ、残念ながらこちらの知識が充分でないため、理解が不足していて、どうしても中途半端ななまかじりになってしまう傾向がある。それでも、素人ながらにそういうことにも触れてみるのはおもしろい。
 そのようにして、有名な岬や観光地でもない、一見なんの変哲もない出っ張りにも名前がついているというその一事に着目して、その岬に注目してみよう、というのが岬めぐりの精神なのだ。
 とはいっても、ほとんどの岬が有名でもなく、都合よくエピソードや物語や伝説を秘めているわけでもないので、まるっきり書くネタがないというごくフツーの岬も多いのが実情だ。
 当岬めぐりでは、それでも強引に無理矢理一項目は設けてしまうのが方針なので、それを何を書いてどのようにして切り抜けるか、それに四苦八苦するのもまた一興かも。

dendenmushi.gif(2018/08/25 記)

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日本中の岬の数は3,858もあるがこれまで行ったのは約1,500くらいしかないので…=記憶遺産Part2-09 [ある編集者の記憶遺産Part2]

 日本中に岬(崎・鼻などを含む。以下同じ)の数は、いったいいくつあるのか? そんな統計は知る限りどこにもなかった。それならば、自称「岬評論家」を名乗るでんでんむしとしては、自分で調べてみるしかないだろう。
 そう考えて、国土地理院の地理院地図で海岸線を舐めるようにして岬を拾い上げ、数え出してみたのは2008(平成20)年のお正月のことだった。その結果は、番外:日本全国津々浦々岬の数はいったいいくつある? 数えてみた(岬・崎・鼻データベース=その1)として、ブログに書き出していたのだが、一部に間違いもあったうえに、地理院地図の表記自体も変わっていることに気がついた。
 そこで、その10年後の2018(平成30)年3月には、改めて全面的に数え直し作業をゼロからやり直した。そうして数え直してみた結果は、データベース改訂新版として、
に掲載している。
 それによると、日本中の岬の数はでんでんむし調べでは、3,858となった。それを地域エリア別、沿岸・島嶼・内陸の所在別、岬・崎・鼻の呼び名別に一覧表にまとめている。その表とマップを、ここに再掲しておこう。
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 改めて数え直しながら地図を全部しらみつぶしにみると、この岬全部を回るのは、やはりむずかしいことを痛感する。どうみても行けそうにない、そばにも近寄れそうにない、遠くから見ることもできそうにないような岬が、相当数ありそうだということがわかるからだ。
 もともと「全踏破」などという大それたことは謳ってはいないものの、点から線にコース設定を変えてから、道中にある岬はことごとく拾い出してみようとしてきた。だが、それでも結局見えなかったね、という岬もいくつかある。それは仕方がない。そう割り切ることにした。
 長いお休みに入る前、直近の岬の通算番号は、「1523」の横須賀市破崎であった。同じ岬で二項目以上を数えるものもあるので、これが即1523の岬に行ったということにはならないが、だいたいはそんなもの。つまり、3,858中の1,500で、まだ全岬の半分にも遠く及ばないことになる。
 これまで行って見て、項目にあげた岬は、東日本が多い。北海道は利尻礼文とその他の一部を残しているものの、ほぼ終わりに近い。東北地方は、三陸に一部どう見てもむりかなというところがあるほか、猪苗代湖などの内陸の一部を残しながら、太平洋側・日本海側とも全部いくつものコースに分けて網羅してきた。関東は、小笠原諸島を残してはいるがだいたい終わっている。北信越は、日本海の離島を含め、だいたい終わっているはずだし、東海も、熊野灘沿岸の道もないリアス海岸の岬を残す以外はほぼ終了。近畿は、但馬と播磨・淡路の一部が残っているだけ。
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 …と、概ねこんな具合で、近畿以東の東日本は、大筋ではほぼ終わっていると言っても差し支えあるまい。
 となると、残るは西日本。今後の岬めぐりのコース設定は、中国・四国・九州が対象となる。西日本もあちこち飛び飛びに行っていて、いくらかは線でも繋がっているところがないわけではない。中国四国地方では、岡山・広島・山口、香川・高知などでは行っているところもあるけど、まだ残っている線もある。九州地方では、福岡・宮崎・鹿児島・熊本・長崎とその一部はつついているが、対馬から与論島まで、たくさんある島嶼部も含めてまだこれからだ。沖縄も本島と先島諸島は済んでいるが本島周辺の離島がまだである。
 ざっと眺めてもこんな具合で、あと半分以上を残す西日本の岬めぐりは前途多難と言えそうだ。
 諸事情が許せば、次の岬めぐりの再開は、案として3コースが考えられると、大まかなプランはできている。A案は徳島から阿南、牟岐と南下し、県境を越えて高知県に入り、室戸から奈半利へというルートで岬をめぐる。ここは蒲生田岬や室戸岬は行っているが、そのほかは抜けていた。B案は、まだ残っている淡路島の西海岸から橋を戻って姫路へ行き、たつの市の岬をめぐった後姫路に戻って、家島諸島に船で渡って戻ってくるというルート。そしてC案は、小豆島と直島の岬をめぐり、橋を渡って丸亀市の手島・広島・本島の島めぐりを済ませてまた橋を戻るというルート。いずれも、いずれは行かなければならないところなので、要は順番だけのことではあるが…。
 A案は、徳島までと高知からと往復飛行機になりそうだ。飛行機になると、予約やらなんやらが面倒なうえに早割で取らないと高くつく。相当前から決めておかなければならないうえ、変更ができないので、計画としては敷居が高い。
 その点、B案・C案は、往復新幹線だから、週間天気予報を見ながら数日前に思いたって出かけるということも可能。ここから、いよいよ瀬戸内海の島めぐりに入ることになる。順番からいうと、小豆島の前にここはまずB案からかな…という感じでもあるのだが、そういうほど気軽でも簡単でもなく、相当いろいろ問題含みなのだ。
 B案の問題点のひとつは、まず淡路島の西海岸に残っている5つのちょこんとした出っ張りで、なかなか計画がむずかしくて、これまでの淡路島の岬めぐりからはいつも積み残しになっていたものだ。何が問題かというと、まず西海岸を縦貫するバス路線がない。洲本から出て西海岸の一部を回ってまた洲本へ戻る路線はあっても、毎朝一便のみとかどういうわけか非常に不便にできていて、あれこれ首をひねりバス会社のサイトの時刻表をひっくり返して見ても、どうにもうまくいかない。
 改めて思う淡路島の大きさと、不可解なほど不便なバス路線とその時刻表だが、島に2泊でもする覚悟と時間を費やす覚悟ならそれでも可能なのだろうが、そういうわけにもいかない。5キロ10キロと歩くことを前提にすればできても、もうなるべく歩く距離は少なくしないと体力が持たない。
 できることなら、ここはもう三宮からバスで西海岸の五色町まで行ってまた戻ってくるというくらいでできるだけ簡単に済ませたい。そうなると、南側のふたつの岬はもう遠望でOKということにするしかない。そういう割切りをすれば、この計画もなんとかなりそうだ。
 また、家島諸島にしても、船に乗って通る航路から見えればよいが、どうしても航路からは影になって見えないところが出てくる。これもどうしようもない。たつの市の室津湾付近の岬に行くには、山電網干からのバスだが、これがなぜか休日しか運行しないという。これでスケジュールの全体を合わせるのも一苦労だ。
 こういう問題は、A案・C案にもそれぞれ似たようなのが含まれているので、どうやら、今後の西日本の岬めぐりとその計画では、無理をせずそういう割切りを徹底するという、ある種の方針の修正が必要なのではないだろうか。その代わり、見えなかった、行けなかったという岬名も、その原因理由とともに明記するようにしたらどうだろうか。
 考えてみると、これまで東日本の岬めぐりは比較的順調にこなせてきたと言えるが、実はそれには理由がある。東日本の海岸線は、島が少ないので沿岸だけだと総じてさほど複雑でない。そのため、一筆書きコースも組みやすい。もうひとつは、JR東日本の大人の休日倶楽部の会員限定のパスというのがあって、閑散期の期間限定だが4日間(北海道を入れると5日間)乗り降り自由、特急券の指定も6回まで可能だった。これをいつも利用していたが、西日本にはそういうものがなさそうだ。おまけにこれからは東京からの新幹線利用で、目的地へ近寄るまでにもより時間がかかることになる。
 数が多いうえに、いろいろと制約が多くなりそうな西日本の岬めぐり、さてさていかがなりますことやら…。
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dendenmushi.gif(2018/08/22 記)

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So-netブログ「でんでんむしの岬めぐり」を始めてから13年目…その計画と地図=記憶遺産Part2-08 [ある編集者の記憶遺産Part2]

 So-netブログ「でんでんむしの岬めぐり」を始めたのは、2006(平成18)年のことだから今年(2018)で12年になる。最初のほうは過去にホームページに載せていたものを持ってきているので、文章も写真も少ない。岬の選び方も統一性や法則性もなく、ただ単にたまたま行ったところが、バラバラと並んでいる。
 これは、まだ岬めぐりの方針自体が定まっていなかったからだ。実は、当初はなんとなく各地でそれなりに目立っていそうな岬をいくつか回ればいいのではないかくらいの、ごくいい加減なつもりでいたのだ。ネットで見ると、その頃はまだブログよりもホームページで、岬や灯台をめぐっているという人もいくらかあって、その多くはリスト的なものだったり、観光ガイド的なものばかりだった。ドライブやツーリングの記録のようなものが多かったが、確かに岬めぐりは足が問題だ。
 車で自分で運転して回れば、かなり効率よく回ることができそうだ。しかし、残念ながらでんでんむしは車も持っていない。免許もない。だからレンタカーを借りて回ることもできない。
 電車やバスなどの、いわゆる公共交通機関に頼るしかない。それでは自分で車を転がして行くのと比べると、格段に効率は悪くなる。はっきり言って、極めて不便である。決定的なのは、岬のある場所というのからしてもともと不便なところにしかない、交通の便利な場所にあることは少ないという事実である。
 そこで、へそまがりは閃いた。そうだ、これを逆手に取ったらおもしろいのではないか。ユニークな切り口が、そこに生まれるのではないか。
 公共交通機関で回るという、この岬めぐりのコンセプトの特徴は、こうしたやむを得ない事情からのもので、それ自体自慢に値することではない。が、車で回れば大して難題とも言えないことに、わざわざハンデのある不便な方法だけで挑戦する、ということにも意味を見いだせるのではないか。
 またそんなことをわざわざ始めようという人は、ほかにあまりいないはずだ。まず第一に、そこが気に入った。
 始めた頃には、いったい日本中に岬の数はどのくらいあるかも、考えたことがなかった。相当多いだろうというくらいの認識だったので、全部回るという発想は最初からなく、地図で見て目立って出っ張っているところをチェックして行けばよかろう、というつもりだった。
 だから、当初の岬めぐりでは、その目当ての岬だけを目指して、スタコラ出かけるというスタイルだった。地蔵崎・禄剛崎・室戸岬・越前岬・野島崎・佐田岬などなど、地図上の目立つ出っ張りという「点」を目指して行っていた。当然、そのほかのことは目に入らない。その近くや道中の途中に別の岬があっても、知らん顔で通り過ぎていた。
 So-netブログを始めてしばらくの間は、こうした過去の記録をほじくり出しては載せていたが、それが概ね一段落ついたところで、こういうめぐり方ではあまりにもムダが多いと思うようになった。
 また、昔に行ったところはまだフィルム写真の頃で、ネガを探してきてそれをデジタルデータにするのも、いかにも面倒なことだった。それくらいなら改めて再訪して行き直したほうがいい。そこでまずはと足元の三浦半島の岬(2006年の054 観音崎〜)から、再訪を始めた。
 このときから、点ではなく「線」で岬をつなぎながらめぐるようにした。近場の場合にはまた行く機会もつくることができるから、飛び飛びでも残ったところはまたもう一度行けばいいのだが、遠隔地の場合には一度で済むように、その周辺の岬は全部一筆書き方式で回るほうがいい。
 となると、岬もメインのひとつだけでなく、その順路や周辺にあるものすべてを網羅することになる。
国土地理院地図 (2).jpg
 こうして、地図を見ながら岬をめぐるコースを考えていかなければならない。そこで問題になるのが、岬の定義と選定であるが、これにも一定の基準が必要だ。でんでんむしは、国土地理院の地形図には若い頃山歩きをしていたときからの愛着があるので、岬めぐりに出かけるときにもそれを見て、海岸線から岬の名前を探していた。
 そうして買ってきた5万分の1や2.5万分の1の地図が、どんどん溜まっていくが、これも一度使うとまた再び使うということもない。
 そのうち、国土地理院のサイトで地形図が公開されるようになり、使いやすくなったので、これら紙の地形図も、あるとき整理してしまった。
 計画を立てるときにも、もっぱらこの地理院サイトを基準にして岬を探している。ネットの地図は、地理院以外にもいろいろあることはある。一通りは試してみたのだが、いい加減な地図ばかりで使い物になるものがない。ただ、Mapion にはひとつだけ地理院地図にもないいい点があって、困ったときには参照している。それは「いちおう」とカッコつきながら、バス停が表記してあるからだ。こういう地図はほかにはない。
 岬だけにしか用がないので、地図を見るのももっぱら海岸線のみである。山の中は見ても仕方がない。そこで気がついたが、伊能忠敬の測量隊も同じように海岸線を主に歩いて行ったのだ。
 海岸線から探すのは、○○岬に限らない。○○崎もあれば、○○鼻もある。数は少ないが首などというのもある。そういった岬の名前は、地理院地図では斜体で表記されている。斜体で記された名前には岩とか島などいろいろあるのだが、それらは岬の名前とは言えないので除くことにする。
 そうしてピックアップした岬・崎・鼻を見て行くには、当然コース順にしないと行った來たりまた戻ったりはできない。一筆書きでコース順を組み立てることになるのだが、そこでは電車やバスの公共交通機関のあるなし、その路線や停留所、発着時刻が問題になる。その肝心の公共交通機関も、今やバス路線の廃線・縮小や会社の撤退が全国各地で進行しており、縮む一方である。
 コース計画の基本は、何時何分の電車でどの駅まで行き、そこからどの路線の何時何分のバスに乗って、どこの停留所で降りてどこまで歩くかを想像してみなければならない。実際に行ったときにどういう状態になるかを、極力想像力を働かせて、思い描いてみることが重要なのだ。
 場合によっては、電車やバスを降りないで、その車窓から岬が眺められればそれでよし、ということもある。降りて歩くか、それとも車窓で済ませるかは、そのときその場所、交通機関の時刻表の都合などによって総合勘案して判断する。それらダイヤなども、もっぱらネットで情報を探り出してくる。
 そういう交通時刻表の情報は、なるべくその電鉄会社やバス会社や船会社のサイトを確認しなければ、善意の第三者がアップしたものの中には、更新されないで古いダイヤをそのままにしているものもよくあるので、注意が必要だ。
 ここで降りたら次のバスはいつになるのか、次の岬までは何キロ歩かなければならないか、この岬は通りすがりではなくじっくり眺めて見たいがそのためにはどこに宿を取らなければならないか、その辺に泊まることができる施設はあるのか…などなど、それが、すなわち計画を立てる、ということになるわけで、そこがまた実におもしろく楽しい。
 計画を実行するときには、できるだけ持ち物は少なくする。必需品はデジタルカメラと計画(行程)表と、地理院地図だけ。ガイドブックなどは一切見ない持たない。今時だから、その気になれば、行く前からその岬に関する情報なども集められる。だが、でんでんむし流では、それはしない。
 事前に情報収集するのは、交通機関の時刻と、宿泊施設予約のためだけで、あとは実際に現地へ行ってホーとかへェーとか…で、初めて知ることになる。もっとも、帰ってきて記事を書くときには、必要に応じて調べたり裏付けを取ったりはする。
iPadMap.jpg
 地図はiPadが出てからというもの、紙の地形図を買ってきてそれを畳んで持って行くことがなくなった。国土地理院のサイトから岬の部分を開いて、それをキャプチャー画面に撮り、それをそのままiPadに入れて持って行くようになったからだ。2010年以来、このスタイルが続いているが、近年では、より小さくて持ち運びに便利なiPad mini で持って行く。
 WiFi 環境は望んでも得られない、辺鄙な場所ばかりを選んで歩くようなものだから、これが唯一最善の方法なのだ。

dendenmushi.gif(2018/08/19 記)

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捨ててきたもの残してきたもの…湯島から月島へ仕事場を移して=記憶遺産Part2-07 [ある編集者の記憶遺産Part2]

 お盆特別企画みたいにして、これまでに捨ててきた幾多の小道具たちの成仏を祈りながら過去をなぞっている。「過去との互換性は画期的な製品進歩の抵抗である」というジョブスのおかげで、Macユーザーはいつも新しい発見と驚きを連続して体験することになる。当然ながら、そうして次々と新しい機種へ乗り換えていけば、使わなくなった機械がだんだんと増えてしまう。それらをいつか適当な時期に、まとめて処分しなければならない。これがまた結構大変だった。
 もちろん大事な過去のデータなどは、CDに焼くなりHDに入れるなりして、保管して引き継いで行くことはできる。もっとも、それらを引っ張り出して見なければならない、再使用しなければならない、ということは滅多にない。
 そうして過去との互換性は保っていたし、アプリケーションなども、OSの進化で落ちこぼれるというケースもないわけではないが、重要なアプリについては必ず代替できるアプリも現れるので、なんだかんだとぶつくさは言うけれど、それで決定的に困った、致命的な影響を受けたということはないのだ。
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 ただ、長くやっているとどうしても処分しなければならないもの、ごみは増えていく。マニュアルや本の類なども本棚を占拠してかさばっていくが、よく見るともう使うこともない、用のないものばかりだったりする。後生大事にとっていたCDなども、もう使い途もないものになっていて、せいぜい記念碑的な意味しかないものばかりだ。
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 あるとき、一念発起してそれらも全部処分してしまった。燃えるゴミで処分できるものはまだ始末がいいが、コンピュータ本体は始末が悪くて困る。リサイクル法でどうやらこうやらとは言うけれど、eMacなどは重くて郵便局へ持っていくこともならず、未だに押入れの奥に鎮座したままだ。
 このブログの2000項目目の記事が、前回の記憶遺産Part2-06だった。本編である「岬めぐり」自体は、2018-01-07更新の1523番目の項目が最新で、それから後は少し長いお休みに入っている。つまり、500項目近くは、直接個別の岬を取りあげたものではない番外項目や、岬ともまったく関係がないカテゴリがいくつか含まれている。
 その中の一つに記憶遺産もあるわけで、そのPart1は主に少年期の記憶がらみ、Part2はコンピュータがらみの小道具遍歴をなぞってみた。仕事がらみは別の年表『思い出の索引』のカテゴリの中で、1961@昭和36年から1992@平成04年までの間に記録している。
 その後、身体を壊して退社し、2年半かかって治療にとりくみながら神田の出版社に9年近く勤めている。その頃からISDNも普及しはじめ、やっとインターネット環境も整う。神田神保町近くにあった会社まで、お茶の水橋を渡って歩いて通える湯島に仕事場を借りていた。
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 休日には本郷台の周辺を散策に歩き回り、それを自分で試験的に作ったホームページに載せていた。マンションの広告にあった文京区の航空写真を拝借して、その上に番号を乗せて、その番号をクリックするとその場所の項目に飛ぶ、というふうに工夫したのがミソだった。
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 そんなテストを経て、1997(平成9)年には、自分のルーツを調べるというホームページを開設し、2000(平成12)年からはブログも始めたが、2002(平成14)には神田の会社を辞めた。それを機にして、仕事場は月島に移転した。湯島から月島へシマを変えたのは、通勤の必要がなくなったのでこれまであまり縁がなかった場所に、と思ったからだ。
 月島の仕事場は、隅田川、月島川、晴海運河に囲まれたところで、銀座や有楽町までも歩いて行ける。そこでさっそく隅田川テラスを歩くという課題ができ、それでまたホームページを作ったりしていた。
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 それまではバラバラと何かのついでに行っていた岬めぐりを、岬に行くためだけの計画という明確な目的で始めたのもこの頃からだった。2004(平成16)年の潮岬から始め直したのだが、それも通勤の必要がなくなって、仕事の合間を縫っては、比較的自分本位でスケジュールを立てられるようになったことで、初めて可能になったものだ。
 同時にこの頃から、ホームページは整理して、岬めぐりを中心テーマにして、その記録はブログに絞り込むという意識が芽生える。テストを兼ねてブログ環境を提供しているプロバイダをいくつか経験した後の2006(平成18)年には、比較的マシな方だと思えたSo-netブログに腰を据えることにした。
 岬めぐり本編の1500項目以外の500項目のうちには、そうした過去のホームページがらみで尾を引いているものも少し残ってはいる。元のホームページのデータもテキストやjpegファイルやHTMLファイルはCDには入れてあるが、再現して見ることもなく大部分は実質的に消えてしまっている。過去との互換性を保ち続けるのは、やはりなかなかむずかしい。だが、こうして記憶を記録しておくということもまた、そのために必要なことだろう。

dendenmushi.gif(2018/08/16 記)
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おにぎり型 iMac から以降Apple が出してきた新製品の主だったもの=記憶遺産Part2-06 [ある編集者の記憶遺産Part2]

 素人目にも混乱が見えていると思われたAppleの製品ラインも、ジョブスが復帰した翌年の1998(平成10)年から、さっそく劇的に変化する。それまでAppleの新製品発表も幕張メッセで毎年開かれていたショウに合わせていたが、1998年には東京ビッグサイトでApple単独の新製品発表会が開かれ、それにジョブスがやってきて基調講演をするというので、大騒ぎになった。
 でんでんむしも申し込んで、ナマ・ジョブスを見に出かけたが、ものスゴイ人の波で、講演会場に入るまで川の流れのような人の帯に驚いた。後にそのジョブスのスタイルは、プレゼンテーションのモデルとなり、今日に至るまで多くの人が踏襲し参考にしてきたようだ。
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 当日の目玉が、カラフルな5色のおにぎり型 iMacであった。Yum! Yum! というキャッチも使われていたが、美味しそうなキャンディーをイメージしたものだったという。へそまがりのでんでんむしはこの5色にはない特別仕様のグラファイトが出てすぐ自宅用に買ったのだが、展示会場でそれらを初めて間近に見たときに、遠いかなたからゴロゴロ響いてくる遠雷を聞いたと思った。
 やがて、コンピュータとは関係ないものにまで、カラフルな半透明な樹脂のデザインは溢れかえるようになるまで、そう時間はかからなかった。
 実は、このときのプレゼンで、ジョブスはMac OS Xのこともちょっとだけ紹介していたのだが、v10.0が出るまでは少し時間がかかったようだ。
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 おにぎり型 iMac から以降、Apple の出してきた新製品の主だったものは、こんな具合になるだろうか。(大型Power Macの一部省略)
■1998年 iMac G3(おにぎり型5色)。
■1999年 iBook(貝殻型ボディデザインでこれも5色?)。
■2000年 Power Mac G4 Cube(四角い箱)。
■2001年 初代 iPod(カセットテープ大)。Mac OS X v10.0。
■2002年 iMac G4(首振り大福もち型)。eMac。
■2003年 iBook G4。PowerMac G5。
■2004年 iMac G5(液晶と本体が一体化した大型ディスプレイ)。
■2005年 iPod nano、 iPod shuffle(iTunes Music Store)。
■2006年 MacBook(白いポリカーボネートボディ)。MacBook Pro。
■2007年 初代 iPhone。 iPod Touch。
■2008年 MacBook Air。
■2010年 初代 iPad。
 このリストのなかでは、iBookとiPod mini、iPod nano、iPod Touch、iBook G4、PowerMac G5それにMacBook Air以外は全部買っていて、使っていた。なかでも、G4 CubeとiMac G4は仕事場では並べて使っていたし、iMac G5が出てからはそれがメインマシンとして働いていた。そして、携帯用には白いMacBookもよく働いた。
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 そうして、iMac G5を最後にメインもデスクトップ型からラップトップ型のMacBook Pro に切り替わっていった。というのも、もうあまり大きな画面は必要としなくなっていたからだが、そもそもこれだけ次々と新機種を追いかける必要があったのだろうか。
 この当時はもう、現役編集者として編集の業務そのものにMac は欠かせない道具となっていた。常に新しい機種を追いかける必要はなかったのだが、不思議と新機種が出る頃には前のマシンに不具合が生じる。そんなこともあって、必要に迫られて切り替えるというケースもあった。
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 この12年のリストの中で、注目されるのがiPod からiPhone への流れで、Appleが音楽やアプリの配信の基礎をつくり、やがてコンピュータ屋さんから電話器屋さんへとその事業主体を移していくことになったことだろう。でんでんむしも初代 iPhone は使っていたが、猫も杓子もケータイを振り回すようになってきて、へそまががりはさっさとやめてしまった。
 その前にも、携帯電話初期の頃にTU-KAの端末を使っていたこともあるが、もともと電話というものがあまり好きではない。ビジネスにも、メールが普及するとそれで充分だ。電話以外にもなんでもできると言われたって、それはコンピュータでもうやっているから必要ない。わざわざ読みにくい小さな画面で、電車の中でまで見たいとは思わない。
 とはいえ、PDAへの興味はまだ断続的にあって、PalmOSの端末も試したりしていた。2003年にSONYが出したQWERTYキーボード搭載、折りたたみ型CLIEには、ちょっと期待して買ってみたのだが、やはり実用まで至らなかった。
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 DTPは早くから実践してきたので、その普及活動にも関わってきたり、人様にもMacを勧めたりして、エバンジェリスト的なこともやっていたのだが、人に勧めるのはやめることにした。だって、考えてみれば余計なお世話だからね…。それでも、おにぎり型iMac は、頼まれたり相談されたりして、秋葉原のイケショップを紹介したりしていた。
 そう、イケショップ。Appleが直営店方式に乗り出す前までは、Mac専門店としてユーザーの間ではちょっとした有名店だったのだ。そのショップとの付き合いも、1985年の漢字ROMの時くらいから始まっていたから、これも随分長かった。
 アップルストア銀座がオープンするのは、2003年11月のことで、当日は銀座通りから京橋の交差点を曲がって、鍛冶橋近くまで長い長い行列ができたものだった。
 もう一つには、システムの変遷がある。この間には、ずいぶんたくさんのシステムのアップグレードや新システムへの移行があった。Mac OS X のように、システムそのものが根本的に様変わりするので、それについていかなけれならないということもあった。これには、戸惑うユーザーも多かったが、ジョブスの哲学では「過去との互換性は画期的な製品進歩の抵抗である」ということらしかった。
 そして、もう現役を退いたでんでんむしは、MacBook Pro が一台あればそれで事足りたし、アプリケーションも決まったものだけしか必要でない。それで、システムはアップグレードもしないで10.6.8のまま使い続けるという選択をした。
 こうして、話はこの記憶遺産のはじめのほう、
に戻って繋がっていくわけだ。
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dendenmushi.gif(2018/08/13 記)
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きた!みた!印(28)  コメント(4) 

さてそれからというものいったい何台のMacを買ってきたことだろう=記憶遺産Part2-05 [ある編集者の記憶遺産Part2]

 スティーブ・ジョブスとその仲間たちのガレージから起業したというアメリカン・ドリーム話に魅せられたわけでもなく、自分がスカウトしてきたスカリーに、ジョブスがAppleを追い出されるといういかにもアメリカ的なエピソードに興味をもつわけでもない。
 ただ単純にMacintoshという新たな道具に感心して、惚れ込み入れ込んできただけの極東の一ユーザーにもただ迷惑な話だった。Appleの上層部のゴタゴタは、経営方針や製品ラインの混乱となって、ユーザーにも直接影響してくるからだ。
 記憶では忘れていることも多く、整然としていないので、ここは記録で振り返ってみると、1986年から1997年までは概ね以下のような新製品が立て続けに出されている。その多くはスカリーの指揮下によるものとされるが、彼はジョブスに言わせると「砂糖水を売って」いたわけで、もともと技術屋でもなんでもない。
■1986年 Macintosh Plus 日本語システム 漢字Talk1.0。
■1987年 初のカラー対応Macintosh Ⅱ、ハードディスク内蔵Macintosh SE。HyperCardを発表。
■1990年 Macintosh Classic、LC、llsiなど。Power Book。
■1991年 新OS System7、QuickTime。
■1992年 Apple DuoDock。
■1993年 Macintosh Centris 610、 PDA(携帯情報ツール)NewtonMessagepad、Macintosh Quadra 610、Macintosh PowerBook Duo 210。
■1994年 Power Macintosh6100/60,7100/66、Performa 630。 QuickTake 100、150。
■1995年 Power Macintosh 9500/120 。
■1996年 Newton MessagePad 130。
■1997年 Macintosh PowerBook 1400cs。20th Anniversary Macintosh。
 この頃は、矢継ぎ早に新製品が出たものの、あまり統一性や一貫性は感じられなかった。このリストの中で自分で買ったものはMacintosh ⅡやMacintosh Classic、Apple DuoDock、PowerBook Duo 210、Macintosh Quadra 610、タワー型のQuadra 950などくらいだっただろうか。
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 キャノンに先手を取られたApple も、漢字Talk1.0という妙な名前で日本語のサポートに本腰を入れざるを得なくなったが、ユーザーとしては遅ればせながら歓迎すべきことだった。
 Macintosh Ⅱは、大学入学祝いにと娘に買ったもので、当時「最高を最初から」とのキャッチで宣伝していたが、カラーというのがここで一時代を開いている。ノート型も PowerBook Duoで試して、タワー型のマシンまでいったのがこの時期だったような気がするが、名前を見てもすぐに姿形が思い浮かばないものもある。スカリーの置き土産と言われたNewtonには手を出さなかった(出せなかった)。
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 HDを内蔵したMacintosh SEは、業務用にかなり普及したと思われるが、それらが代替わりするときに廃棄されるものをもらってきた。
 HyperCardは素晴らしいもので、部品を選んで組み立てることで、自分なりのアプリ(HyperCardではこれをカードを積み重ねたスタックと呼んだ)を作ることができる。天才プログラマーと言われたビル・アトキンソンのこの名作にも感動したでんでんむしは、自分でも自己紹介用のスタックを作ったりしていた。
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 「My Book」と名付けたそれは、ダブルクリックで本を開いて、矢印をクリックすれば次のページが開くという設計にして、疑似的に画面上で一冊の本をめくってみるような感じにした。もちろん、ページごとに絵が動いたり音が出たりというカードの機能も盛り込んで遊び心で、大真面目なものではなかった。ただ、それが自分の工夫しだいで誰でも比較的簡単にできる、というところが HyperCardの優れたところだった。
 手前味噌で少々味付けをすれば、これは漠然とながら頭の中にあった今でいう電子書籍のイメージを、形にしてみようと思ったものであった。
 他の人が作るスタックも、みんな楽しく遊んでいるなと思ったが、アトキンソンもAppleを去り、これもNewtonと同じく、その後のMacの流れの中にやがて消えていく運命だったのが残念だった。
quickTalk150.jpg
 1994年のQuickTake 150も、あまり世間には知られていなかったはずだが、記念すべきものだった。デジタルカメラといえば、カシオのQV-10が最初だと思われているようだが、実はそれより1年以上も前にこれが出ていた。Macintoshだけでしか使えない専用のデジタルカメラだったから、世間が知らないのも無理はないのだ。
 ディスプレイもなく、双眼鏡のように覗いてシャッターボタンを押し、ケーブルでMacに転送することができた。でんでんむしもこれでホームページを作ったりしていた。フィルムからデジタルへ、その後の写真環境の流れを大きく変えることになる、最初の一歩だった。
 また、DTPの実用化を開始したのも、1990(平成2)年頃からだった。DTPソフトウェアのQuarkXPressは、当初はFDで何枚もあり、20万円を超える高価なものだったが、日本の組版に適合していて、これなら使えると思った。そこでテストを重ねて実用化に踏み切った。
 その後10年くらいはDTPと言えばMacであり、そのソフトはと言えばQuarkXPress、という時代が続くことになる。印刷所の対応は決して早いとは言えなかったが、その分を一時期雨後の筍のように現れた出力センターがカバーしていた。
 世に中変われば変わるもので、現在ではアドビのInDesignにすっかり取って代わられていて、クオークの影さえ見えない。これほど見事な主役交代劇はなかなかないと思うくらいだ。それはInDesignがよほど優れているからというのならまだよかったのだが…。残念ながら、そういうわけでもなかった。
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 タワー型のQuadraをデスクトップで使うのは邪魔すぎるので、専用のパソコン台を置いたりしていたが、 1997年にAppleが創立20周年を記念して、世界で12,000台のみ限定生産予約制という触れ込みで出した20th Anniversary Macintoshはそのコンパクトさも気に入ったので予約して購入した。BOSEのウーハーと電源部がちょっとかさばりはしたが、インテリアとして並べておいてもなんら違和感がないくらいで、音楽を聴くという用途も兼ねて2004年頃まで愛用していた。
 創業以来の虹色のリンゴマークも、製品についたのはおそらくはこれが最後になったのではなかろうか。

dendenmushi.gif(2018/08/10 記)

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きた!みた!印(32)  コメント(2) 

待たれた1984年がやってきてMacintosh(Mac)との長い付き合いが…=記憶遺産Part2-04 [ある編集者の記憶遺産Part2]

 その前の年1983年から、Appleはゼロックスの研究をモデルにした(?諸説あり)Lisaというマウスやアイコンやウインドウをマウスのクリック、ダブルクリック、ドラッグなどの操作できるまったく新しいユーザー・インターフェイスを備えたモデルを出していた。それが1984年には安く小さくなって、Macintoshとして発売されるというニュースは、日本でも「ASCII」などでもうよく知られていた。
 だから、一部の人間にとっては、1984(昭和59)年は待ちに待ったものだったとも言える。ジョージ・オーウェルの「1984年」に引っ掛けてコンピュータの巨人IBMに対する皮肉を込めてもじったCM(なんと、その監督はリドリー・スコット)の話題とともに、全米で年明け早々の1月には華々しく発売されたMacintoshは、その4月にはもう日本で発売された。
 でんでんむしも待ちかねたなかの一人で、帝国ホテルで開かれた発表会に駆けつけ、その場で購入契約をしてきた。その当時は、Apple日本法人の力は整っておらず、Apple II からの関係なのか、東レやキヤノン販売の大手のほか、中小の販売代理店が入り混じっていたので、でんでんむしが買ったのもそんな代理店の一つだった。
 値段は確か当時のお金で70数万くらいだったと思うが、はっきりと覚えていない。これ以降の数多くのMacの購入はすべて自腹で、会社で買ってもらったものではない。
 記憶ははっきりしないが、おそらくその販売代理店の担当者が東京の仕事場に運んできてくれたような気がする。梱包を解いたという記憶がなく、赤と青と黄色とグレーの刷毛でさっと描いたような洒落たデザインの外箱の印象が強く残っている。中のマウスやキーボードの箱も同じようにデザインしてあった。
 天板の後ろから片手を入れて、持ち上げられるようになっていて、キャノン販売は肩からかけられるオリジナルのケースも用意していた。それに入れて持ち歩くことも可能だったが、まるでクーラーボックスをしょった釣りおじさんのようだった。
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 それまでのBASICマイコンと違って、9インチの画面も真っ黒けに緑の文字、四角いカーソルが点滅するだけのものというのではなく、全体にグレー基調で、しかも画面の位置制御は自由自在。起動すると中央に小さなMacのアイコンがニコニコとあらわれる。
 デスクトップという概念も、非常に馴染みやすく、すぐに慣れた。マウスでカーソルを合わせアイコンをダブルクリックすると、そのソフトやデータがボワーッと画面いっぱいに動くのも感動的だった。
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 メモリは128Kしかなかったが、まだ多いだの少ないだのも問題にならない。Macintoshには、あらかじめ別箱で標準バンドルされているソフトが2種類あって、それだけで充分に楽しめた。それはMacWriteというワープロソフトと、MacPaintというお絵描きソフトで、その箱を開けると当時まだめずらしかったSony製の2枚の3.5インチフロッピー・ディスクが入っていた。それをスロットに差し入れてソフトを読み込ませるという方式も素晴らしかった。
 まだ、日本語は使えなかったので、もっぱらお絵描きで遊んでいたが、マウスで鉛筆や絵筆を選び、白い紙に自由に絵が描けるというのは、まさに驚異的だった。絵が描けなくても、丸や四角やいろいろな太さ濃さの線やアミが使えるので、そのおもしろさは充分に味わえた。1985年の年賀状は、当然このMacPaintでウシさんの絵を描いた。しかし、いくらお絵描きができても、日本語が使えない高いおもちゃがそんなに売れるわけがない。
 もちろん、BASICも使えたのでプログラムをいじっても遊べたし、 Microsoft Multiplanという表計算ソフトも感歎ものではあったのだが…。
 WYSIWYG(見たものを見たままに)が売りのMacintoshは、アメリカなどでは世界初のパソコン用レーザープリンタであるLaser WriterとAldus Page Maker(ページレイアウトソフト)が発売され、手軽なDTPマシンとしての地位を確かなものにしていた。実用という面では日本語がネックとなった日本と米欧では、周回遅れ以上の差がついていた。
 英語のできないでんでんむしが、漢字はおろかカタカナも使えないMacintoshに、いち早く飛びついたのは、その問題はいずれ時間が解決するだろうと考えていたからだ。そして、これこそが編集者にとっては素晴らしい創造の道具になるに違いないという確信があったればこそである。
 日本市場を伸ばしたいキヤノン販売の強力なプッシュと具体的な肝いりもあってのことだろう。Macintoshの日本語化は、意外に早くやってきた。発売の翌年の1985年には、512Kに漢字ROMを搭載するというかなり大胆なアップグレードが行なわれた。128kのバックパネル(開発者のサインが、その内側に刻印されていた)をすっぽり取り替えて512Kにするという荒技であった。
 そしてさらに、それに呼応してエルゴソフトが日本語入力して処理できるFEP(EG Bridge)とワープロソフトEG Wordを発売し、なんとか日本語対応が進んでいった。
 ただ、漢字が多い日本語のWYSIWYG化までには、さらに時間を要した。でんでんむしもさっそくLaser WriterとAldus Page Makeを購入して使ってはみたが、Page Makeは縦組みができなかった。だから、実用的な日本語DTPへの道はまだまだ遠かった。
 それよりもすぐ近くにやってきたのは、RS-232cポートにモデムを繋ぎ、電話回線を使って行なうパソコン通信で、Nikkei-MIXやnifty-saveなどが発足すると同時に入会し、フォーラムの書き込みなどに参加したりしていた。それも1985年のことだった。当時のモデムの通信速度は300ボーで、ピーピーガガガ…という音とともに繋がる人間的な何かを感じさせた。

dendenmushi.gif(2018/08/07 記)
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きた!みた!印(28)  コメント(1) 

それは1978年に偶然出会ったPET2001からすべてが始まったことになる=記憶遺産Part2-03 [ある編集者の記憶遺産Part2]

 エニアックからいきなり電算写植機に飛んだわけではい。電子計算機というものが大砲の弾道計算ではなく、実際に大手企業で事務処理に導入されるようになったのは、まだでんでんむしが大阪で雑誌の編集をやっている頃だった。その実情を知りたくて、道修町のある大手薬品会社で見学させてもらったこともある。そこで見たのはガラス張りの大きな部屋で穴の開いたカードやテープが飛んだり回ったりしていたパンチカードシステムだった。
 COBOLの本を読もうとしてみたが、ちんぷんかんぷんでまったく歯が立たない。まだまだ電子計算機は遠かった。
 それよりもずっと近くにあって、仕事に欠かせないものはテープレコーダーだった。今どきのICレコーダーの何百倍も大きくて重い、オープンリールのテレコを抱えて夜行に乗り、大阪=東京を行ったり来たりしていたものだ。
 雑誌から単行本の編集に移る間で、ちょっとだけ総務や商品管理の仕事をさせられたこともある。そこでは、電算機からはあまりにも遠く離れたところで、何人もかかって毎月の個別原価計算を何十枚もの大きな表の縦横計を、伝票をめくりそろばんパチパチで合わせるという作業に追われていた。
 数表の縦横計を合わせるというのは、一見極めて単純な作業のように思えるが、これが実際には思った以上に大変なのだ。
 とにかく、伝票と集計表の縦横が合わない。これなんとかならんのか。まだ、キャノンやカシオが卓上計算機を出す前のことで、売り込みにきた事務機屋さんから加算機を借りて試してみたり、手回しの計算機も一部使ったりしていた。(それから15年後、Macintoshの画面でMultiplanを初めて自分で使ってみた時には、これがもっと早くあれば…と思ったものだった。だが実際には、原価計算システムのほうを変えればすむことだった。)
 日本語タイプライターの簡易版パンライターを、会社で導入したのもその頃で、なにしろその当時の対外文書といえば、カーボン紙を挟んで下敷きを入れて書くといったありさまで、それをなんとかしたかった。映画のタイプライターのようにはいかないが、せめてカナタイプはどんなものだろうかと、これは自分でオリベッティが出していたものを買ってみた。実用にはならなかったが、経験にはなった。
 こんな具合で、要はモノ好き小道具好きといえばそうなのだが、こういうことも下地にあったのが、何十年にわたってコンピュータへの興味を持続させ続ける一因ではあったろう。
 1978(昭和53)年は、でんでんむしにとっては思い出深い年となった。その年の終わり頃に、あるシンクタンクの事務所で、Commodore社のPET 2001に出会ったからだ。それが「史上初のオールインワンパソコン」だという、白いカクカクしたダースベーダーの顔の部分にあたる小さなモノクロ画面では、デモのたて棒グラフを繰り返し描きだしているだけだったが、その時に「これだ!」と閃くものがあった。
 その年には、日本生産性本部の企画した、アメリカ東海岸と西海岸の出版社を視察訪問するというミッションに参加していたのだが、どこでもそんなものは見ることがなかった。(「スター・ウォーズ」は全米で公開されており、それを帰途のホノルルの映画館で日本公開に先駆けて観ることができた。)
 PET 2001が秘めている可能性は、一目見た瞬間からぼんやりとながら見えたので、それをどうしても自分で使ってみたかった。そこで社長に掛け合って買ってもらった。その辺のことは、当ブログのサブデータとしてくっつけている
に書いている。
 ただ買ってもらっただけじゃ申し訳ないし、当然これをテーマに本が出させると考え、それを実行した。けれども、あんまり畑違いの本を出すわけにもいかないので、ビジネスに使えるという点を強調し、実際に使えるデータベースの基本をBASICでプログラムした内容のあるものにした。
 そのため、制作には少々手間取ったが、1980(昭和55)年には本を出した。「くわしくなる本」と銘打ったその本は、日本で二番目となるマイコンの本だった。(数十日の差で一番目は逃したが、この本は非常によく売れて、何十倍にも元は取れた。)マイコンの本として、この数年前のNECの大内さんのTK-80の本をあげる向きもあるが、これはいわばマイコンチップの本であって、まったく別物であろう。
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 当時コモドールジャパンからもらっていた写真やPETのマニュアルの表紙、それで入力したプログラムのリストの写真も、古いCDフォルダから探してきた。四角く碁盤目に並んだテンキーとカタカナが使えるキーボードの左側にあるのは、記憶装置のカセットテープレコーダーだ。
 その頃になるとBASICで動くマイコンは、いろいろと出るようになっていて、輸入物ではTRS-80、APPLE IIがあり、国産でも日立、シャープ、沖など大手電機メーカーがこぞって8ピットBASICマシンを発売していた。NECもちょっと遅れてPC-8001を出す。月刊「ASCII」も出ていて、そのメインの記事はプログラムの画面を白抜き文字で並べたものだった。それらのプログラムの多くは、簡単なゲームなどで、まだホビー機の域は出なかった。
 1981(昭和56)にはコモドールジャパンが8ビットの家庭用パーソナルコンピュータVIC-1001を日本で発売した。これはキーボード状の本体だけで、ディスプレイは別に調達してつなぐ方式だったが、これは会社ではなく自分ですぐに買った。自分で買った初めてのマイコン、第一号がこれだったわけだ。これでBASICのコマンドを組み合わせて、自分でプログラムをつくっては遊んでいた。BASICでプログラムをつくるのは、なかなかおもしろかった。できたプログラムを読み込み、RUNと実行命令を入れると、その結果が画面に出るが、たいていは途中でエラーになってしまう。当然ながら、一文字のタイプミスがあってもダメなので、今度はそのエラーの原因を探さなければならない。それ自体がもうゲームのようなものだった。
 この後に出た、エプソンのハンドヘルドコンピュータも自分で買って、これと音響カプラをつなぎ、電話回線を使って会社のPET-2001との通信実験も試みた。通信といっても最初は自宅のマイコンから押したキーボードの文字が、会社のPETの画面に出るというだけのものだったが、これもその実験の過程と結果を本にして出した。それは1982(昭和57)年のことで、パソコン通信が始まる3年前のことであった。
 ワープロもこの頃登場している。当初数百万円もしたものがどんどん安くなり、100万円くらいで買えるものが出たところで、これは会社で買ってもらった。しかし、ちょっと使ってみてわかったのは、この商品はいずれ袋小路に入ってしまうだろうという芳しくない結論だった。RS-232Cポートを備えていながら、メーカーにはそれを使う才覚もセンスもない。ワープロ通信などと一部ではやし始めたのは、それからずっと後になって、ワープロという商品自体が行き詰まる直前のことだった。ワープロの活用術的な本も出してみたが、これは案外に売れた。
 日本語をキーボードから入力して、画面で確認し修正し、プリントできるというのは、アメリカ映画のタイプライターで記事を書く新聞記者の姿に憧れた少年の夢に近いものだったが、それを実現して伸ばしていくのは、ワープロではなくパソコンの世界で可能になっていく。改めて調べてみると、パソコンの売上がワープロ専用機のそれを上回るのは、ずっと後の1999(平成11)年のことだという。思っていたより、ワープロもしつこくがんばっていたことになるのだが…。
 そのほか、会社で買ってもらった小道具にもう一つ、1981(昭和56)年のSORDの機械があった。これはBASICではなく、PIPSという独自の簡易プログラム言語を前面に押し出したベンチャー企業の製品で、確かに使い方によっては企業の定型的な事務処理には実用的かとも思われた。が、あまり普及しなかったし、本も出してはみたもののこれもあまり売れなかった。このように、書籍出版の編集者という本業と、密接に関わりあっていた部分はあるのだが、それとて本流からは外れた余技のようなものだった。
 PET以来、毎年の年賀状はその年(前年)のマイコン・パソコン事情を反映したものでつくってきたが、1982年にはまだPETでキーボードから入力したアラレちゃん(その当時流行っていた)でカタカナだったが、1984年はVICのBASICで描いた線を組み合わせて干支のマウスで、漢字も使っている。
IMG_0984.jpg
 だが、その当時それぞれどんなテクニックを使ってこういうものをつくったのかは、もうさっぱり記憶にない。印刷はプリントゴッコだろうと思うけど…。
 Macintoshが登場するより以前の、でんでんむしの小道具歴は、だいたいそんなところだろうか。

dendenmushi.gif(2018/08/04 記)
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きた!みた!印(28)  コメント(0) 

その昔少年雑誌の記事で初めて電子計算機というものがあると知ってから40年=記憶遺産Part2-02 [ある編集者の記憶遺産Part2]

 何度か書いているように、でんでんむしはコンピュータに強いわけではない。むしろ専門的なことはなに一つ知らずわからず、弱いほうだと言っていい。ただ、一ユーザーとしての歴史は、日本でのマイコンの歴史が始まったその時からあるので、まあそれは日本一(?)長いと言っていいのかもしれない。長いだけでほとんど進歩もなく、専門的な知識の積み重ねもない。ただ、コンピュータの個人的な使用に関しては「偉大なるドシロウトユーザー」として、長い間その周辺をウロチョロしてきただけ、というのが実態であろう。
 どうして、それらの分野が専門の畑でもない一編集者が、そんなことを続けてきたのだろうか。そもそも何があってそんなことになってきたのだろうか。
 日本が広島と長崎に原爆を落とされ、戦争に敗れ無条件降伏をした翌年に、広島市の東の端にある小学校(その当初はまだ国民学校だった)に入学したでんでんむしは、遊ぶことしか考えていないごく普通のぼんやりしたこどもだったのだろう。食糧も物資も充分ではなかった小学生時代の記憶は、極めて断片的なものばかりだが、その後半に少ない機会(多くは借りたもの)にむさぼるようにして読んだ少年雑誌の記事で、初めて電子計算機(「コンピューター」という呼び方が当時使われていたかどうかは定かでない)のことを知った。
 その記事は、アメリカで戦争中から開発されていたエニアックについて書かれたものだったが、どえらい数の真空管が詰まっているというその機械は大きな部屋の一つにも入りきらないとか、その目的は大砲の弾道計算をするといったことが書いてあった。戦争はもう終わってるし、それ以外にその機械がなにをするのかはよくわからないままだった。
 そろばん塾にもほんのちょっとだけ顔をだしたくらいで、かけ算の九九にもつまづくようなこどもも、中学生になると、計算尺にはいくらか興味をそそられる。どうしてそうなるのかが不思議で、この頃から不思議なものに関心が向く。
 英語も苦手だったが、日本語も不思議だった。漢字の書き取りで苦労するたびに、こんな複雑な文字を使わなければならないのは、大きなマイナスになるのではないかと生意気なことを考えていた。その頃から見始めたアメリカ映画などで、タイプライターで文字を打つ場面が妙に羨ましく思われた。
 計算はもちろんだが、文字を書くのも、そのうち機械ができるようになるのではなかろうか、漠然とそんなことも考えたりもした。毛筆で履歴書を書くという作業で、何枚も失敗してみる(それも最後の「賞罰なし」のところくらいまできて書き損なったりすると泣きたくなる)とそれはだんだんと確信に変わっていく。
 その出版社の入社試験に応募するときにもまだ履歴書は毛筆だったか、それともペンで横書きに書くコクヨの履歴書だったか、その記憶がない。専門雑誌の編集部に配属されて、否応なく活字と向き合い、原稿用紙にひたすら字画の多い漢字を書き綴る毎日となった。
 原稿用紙への筆記は、もっぱら消ゴムで消せる鉛筆(柔らかめの)で、万年筆は使わなかった。むずかしい字画の多い字も、辞書を引き引き書いていた。その頃は、大抵の漢字はスラスラかけたはずなのに、今ではさっぱりその字が書けなくなってしまっていて愕然とする。また書き取りでもやろうかしらん。(というだけで、結局やらないんだけどね)
 その当時は、まだまだ通常の印刷物では活版印刷が全盛の時代で、写真が多いものではオフセット印刷も使われていたが、もっぱら活字がメインの編集業務だった。
 活字は、一文字一本の鉛の四角い棒でできたハンコだと思えばよい。大きさと字体の違うセットが何種類も斜の棚に並んでいて、原稿と小さな木の箱を手にした文選工が、原稿通りに活字を拾っていく。木の箱に拾われて並んだ活字は、原稿と割付用紙(これも編集者がつくる)とともに植字工にバトンタッチされる。自分専用の台の前に陣取った植字工は、その活字とその周辺に配置される詰め物(活字がない紙の白いままの部分をつくる)を組合わせて、一ページごとに組んでいく。
 それは、雑誌部門から単行本部門に配属が変わってからも同じだった。大手の出版社では原稿をつくるのと校正をするのは別部門というような話も聞くが、中小出版社では読者に届ける印刷物の最後の仕上がりまで、ちゃんと編集者が見届けて、チェックしなければならない。自分の書いた文字が活字になって、考えたレイアウトに従って形になっていく過程にも大きな関心を持たざるを得ない。このため、編集業務では印刷所とのやり取りや行ったり来たりも多くなる。
 活版印刷では、活字以外の図版や写真などは、別工程で亜鉛板や銅板に焼き付けて細かいデコボコをつくったものを台の上に貼り付け、活字と印面を並べて印刷機にかけ、版につけたインキを紙に転写して印刷していた。
 記念にと活字もいくつか印刷所で貰ってきたことがあったが、いつの間にかどこかへ消えてしまって手元にない。こういうガラクタお宝を何十年も保存し続けるのも、なかなかむずかしい。その代わりなぜか、本では使わなかった亜鉛板(ジンク板)が一枚手元にある。活字よりも大くて散逸しにくかったのだろう。これは写真のアミを飛ばして製版した、1970年代後半頃の新宿のビル街の風景である。(ハンコの印面だから左右は逆)
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 そういう活版時代は結構長く続いた(なにしろ、その基本はグーテンベルグ以来から変わらないのだから)が、その世界を変えるのもやはり環境変化という外圧と技術革新の進展であったといえよう。
 活字は鉛でできている。鉛は人体に有害な物質でもある。そういう認識がじわじわと印刷現場への圧力となり、ついには各方面で法的な規制も始まり無鉛化への対応は必須になる。一方では、高技能を要する人手に頼ることの限界や職場環境の改善も、印刷業界としては課題であったこともあってか、活字を使わず写植で版をつくるオフ化(ホットメタルと言われる活版に対し、写真植字はコールドメタルとも呼ばれたので、コールド化ともいう)と、それを電子計算機で処理するという電算化が徐々に進むことになる。
 こども時代に雑誌で見た電子計算機と、自分の仕事がここで初めて結びつくことになる。ただ、印刷所の電算写植機は、大げさな空調のガラス張りの部屋に鎮座していて編集者からは遠くにあり、活版印刷のようには実態がよくわからない。いくら言ってもなかなかいう通りにやってくれない、厄介なシロモノだった。
 しかし、活字の追放は、同時に文選や植字など現場のベテラン熟練工をも追放することになった。代わりに電算で原稿からの入力を任されたオペレーターは、熟練工のようには文字も日本語も知らなかった。このため、電算初期には随分と校正にも苦労させられたという記憶がある。
 活版から平版へ、活字から写植へ…。このテーマに沿って大小さまざまな動きが起こり、それはやがて大きなうねりとなって印刷業界と出版業界を飲み込んでいった。印刷物の多くはのっぺりした写植の平版印刷になり、活字がつくるちょっと凹んだ影のある風合いがなくなったと言って嘆く人も少なくなかった。
 それが、だいたい1970年代の終わり頃から90年代にかけてのことだったろう。記念すべき初代Macintosh もちょうどそのさなかに登場するのだが、それの前にまだ…。

dendenmushi.gif(2018/08/01 記)
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