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674 カイタロー鼻=熊野市磯崎町(三重県)全国で30を超える“徐福伝説”のある場所のひとつが波田須 [岬めぐり]

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 徐福が渡来した、立ち寄った、住み着いた、いろいろな技術を伝えた、ここで亡くなった…といった伝承記録をもつ場所は、日本全国に30以上もあろうか。そのうちの8か所くらいは、これまでの岬めぐりでも訪ねたことのある場所だが、もとよりそれがテーマではないので、目につけばふれる程度だった。
 それは、“伝説であって史実ではない”とする説が有力で、教科書にも載っていない(らしい)が、各地にはもっともらしい「徐福像」まで、いくつも立っている。その場所も、南は九州屋久島から北は青森小泊まで、広範囲に及んでいる。
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 言い伝えでは、時は紀元前219年、秦の始皇帝の命により不老不死の仙薬を求めて大陸から東方へ船団を仕立ててやってきた一団があった。その数こどもを含む総勢3,000人(どう考えてみても現実的ではない数字なので、“白髪三千丈”の類いであろうか)という、探検航海にしては相当大がかりなもので、そのリーダーが徐福だった。
 二度にわたる試みのすえ、嵐に逢いながら徐福とその随行者たちは、黒潮に乗って日本の沿岸各地を訪れたというわけだ。徐福伝説のある地を実際に全部歴訪したというわけでもなかろうが、最初から一所に腰を落ち着けてしまっては探索の役目が果たせない。とはいえ、なにも各地を転々とすることが目的ではなかったはずだ。不老不死の薬を探すというのは、いわば表向きの使命で、徐福自身も、たとえ仙薬の入手に成功したとしても、皇帝の命に従って、独裁者が支配する故国に舞い戻るつもりもなかったのではないか。
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 大勢の人を連れ、さまざまの資材を積み込んできたのは、自分たち自身のための新天地を求める目的があったからではないかと思われる。そのように考えてみると、この伝説にももうひとつのイメージが浮かび上がってくる。
 製鉄、農耕、土木、捕鯨、医薬など、幅広い技術と文化をも伝えたとされている、徐福やその子孫は故国の「秦」から「ハタ」というその読みに字を当てて名乗ったということになっている。
 これが、日本古代史に残る「秦氏」と、この伝説がどうかかわるのかは不明だが、この符合は暗示的でおもしろい。
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 そうです。ここは「三重県熊野市波田須」。波田須(はたす)は、もとは「秦住」といい、徐福が上陸し住み着いた場所とされている。
 新鹿と波田須を結ぶ熊野古道には、鎌倉時代からの苔むした古い石畳の道が竹林のなかに残っているというし、熊野市のバス路線“潮風かほる熊野古道線”にあたるそこには“徐福茶屋前”というバス停もあった。
 熊野路の岬めぐり計画では、当初はここを歩いてみたい、熊野古道も少しだけでも歩いたということにしておきたかったので、いろいろプランを練ってみたが、結果的にはうまくまとまらなかった。そこだけならなんとでもなるのだが、あくまでも熊野路の岬めぐり全体のなかで考えなければならない。結局、いつもあちらたてればこちらがたたずで、我慢を強いられる。
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 紀勢本線の波田須駅は、これまた入江の奥の小さな砂浜の上にあって、波田須の集落は、JR線と311号線の間にある。徐福がここ矢賀(やいか)の磯に辿り着いたときには、3軒しか人家がなかったとされていて、その人たちに焼き物の製法を教えたとされている。現在この地域の人口がどうなのか、熊野市のページでは見つけられなかったが、「小さな小さな学校です。」とタイトルに謳う波田須小学校のホームページによると、この小学校の児童数は上級生女の子ばかり3名(最新更新が2003なので現在は?)。
 国土地理院の地図には、家屋を示すグレーの長方形もたくさん描かれているが、現在では戸数も30もないらしい。徐福の時代からは10倍としても、山と海に挟まれた小さな谷筋にあたる平地のない場所では、そう広がりは期待できない。
 やがてはここから紀州のほうに移っていったとする説もある一方では、ここに徐福の墓が祀られているとする伝承もある。そういうところがいかにも史実ではなく伝説という説に妥当性を与えているのだが、徐福自身の存在は、司馬遷の『史記』にも明記されているにも関わらず、本家中国では長くそれが史実とは認められてこなかったらしい。やっと1980年代になって、中国で進められた研究によって、それが事実と確認されているようだ。
 いつもちょこっと思いがけない情報をいただくChinchikoPapaさんのコメントによると、「三重県は全国一の“原日本の神殺し”地域」だそうで、「日本古来の神々の社がほとんど潰されて、明治中期まで存在していた約6,500社が、大正期には942社と7分の1にまで激減」しているそうだ。伊勢神宮も熊野大社もあるのに、ちょっと意外である。「神社合祀令」や「排仏毀釈」は、いったいなんだったんだろうと、いつも地方へ行ってそういう傷跡に出合って思うことがある。 
 やはり、そのせいでであろう。お稲荷さんと合祀されてしまっている波田須の徐福の遺跡は、だんだん不明確になりつつあるが、御神宝として直径20センチ余あまりの小さな摺鉢が伝えられ、秦代の半両銭などが出土しているという。また、不老不死の仙薬こそは、当地に自生する天台烏薬だとされている、と熊野市の観光案内には書いてあった。また、波田須小学校では、こどもたちが徐福伝説を2003年に紙芝居にしてネットでも公開している。
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 その波田須小学校のトップページの写真にも、カイタロー鼻が写ってはいるが、その岬の名は記していない。
 カイタロー鼻の名が、写真とともに紹介されているのは、情報としても他にはあまりないのでナカローか。
 これまた遊木戸崎と同じで、カイタロー鼻のある場所は磯崎町だが、岬が見えるのは波田須町なのである。
 トンネルとトンネルの間の、わずかに開けた空の下に、徐福とその一行も眺めていたであろうその岬は横たわっている。

▼国土地理院 「地理院地図」
33度53分59.88秒 136度8分59.93秒
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dendenmushi.gif東海地方(2011/04/13〜14 訪問)

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タグ:三重県
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