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1537 大崎・岩津ノ鼻=姫路市家島町宮:男鹿島(兵庫県)なくなった山の上と見えない岬にも… [岬めぐり]

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 男鹿島の最南端にあたるのがこの大崎。ヒシノ鼻からは南東2.4キロのところに位置するこの岬は、40メートルくらいの段丘状になっていて、その南西側は崖が続いている。崖の上はやはり採石場になっているようだが、ここを周回することはできないらしい。
 ヒシノ鼻から続いている広い採石場は、段丘の崖にまで達している。
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 大崎の東側は丸い小湾になっていて、その海岸には2〜3の突起のように小さな桟橋が、地図には描かれている。建物も固まっていて、そこには田ノ浜という名がつけられている。
 島の南端に近いそこらあたりが、元は男鹿島では、いちばん人口が多く集まる地域だったようで、かつてはそこに小学校もあったという。では、姫路港からはいちばん遠い田ノ浜が、島の中心集落だったのはどうしてだろうか。それは情報もなく、想像しようとしてみても見当がつかないが、おそらくは水の便か港の地形的条件なのだろう。
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 田ノ浜の東の山には灯台もあって、その尾根の南端には岩津ノ鼻という岬名表記もある。神社もあるように記号表記があるが、それはおそらく以前には山の上にあったもので、採石が進むにつれて居場所がなくなり、下に降ろされてきたという神社そのものではないかという推測もできる。osaki05 (1).jpg
 地理院地図には神社の名前がわからないので、Mapionを見ると「大山神社」と表記してある。やっぱりそうだった。島ではほかに神社はないので、これこそがかつて島のてっぺん近くにあって、周辺に大山神社遺跡を構成していたというその名のもとになっていた神社に違いない。
 大山神社遺跡は、1959(昭和34)年に行なわれた家島群島総合学術調査によって明らかにされたもので、弥生時代の高地性集落の遺跡だという。縄文や弥生の集落遺跡は、海浜や海に近い高台や山間などが普通で、山の上というのは確かにめずらしい。
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 かつて大山の標高は200メートルを超えていたはずだが、現在ではそれを見ることはできない。というのは、その山自体が採石のために切り崩され、島全体では今の最高点が180メートルくらいになってしまっているからだ。それで、せめて神社だけは…と南の海岸近くまで移転させたわけなのだろう。
 その山の上には、竪穴建物跡14棟、掘立柱建物跡11棟の住居の跡が集まる遺跡と、そこから製塩土器、農耕具、狩猟具、漁労具なども出土した、という。周辺の島からも旧石器時代の石器なども発掘されており、かなり古く古代からこの瀬戸内の島々の一帯で暮らし、人々が自由に往来していたことを知って、今更のように驚きがある。
 また、高地性集落なのに製塩土器や漁労具があるというのも、不思議な感じがするが、島が海との関わりにおいてのみ成立することも、当然といえば当然だったろう。
 遺跡のそばにあったという烽火台に注目して見ると、わざわざ海から遠いその山の上に設けられた高地性集落の役割が、その展望のよさを活かした見張台にあったと言えそうだ。
 360度ぐるりと周囲の海を見渡すことができるという利点はと言えば、何もそこからの景色を眺め美しい風景を楽しむためにあったというものではない。周辺海域に近づいて来る舟や起こりそうな災厄の兆しをいち早く発見し、警戒態勢をとるためであったはずだ。
 そう考えると、この高地性集落の独特さと、古代人の厳しい生活環境の一面をも知ることができる。
 その高地も、そこにあった遺跡もすでになく、移設された山ノ神・大山神社も、灯台も、小学校もあったという集落の姿も、そして岩津ノ鼻も、すべては坊勢航路の船の上からでは、大崎の陰になっていて見ることはできない。しかも、船の航路は、採石場の白っぽい崖と大崎からは、だんだんと離れていき、遠ざかっている。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度39分4.79秒 134度34分32.53秒
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dendenmushi.gif近畿地方(2018/10/10 訪問)

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タグ:兵庫県
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