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1533 赤松鼻=たつの市御津町室津(兵庫県)赤松氏の地元でその歴史のいったんをなぞってみる [岬めぐり]

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 弁天の鼻の西南西ほぼ正面にあるのが、赤松鼻という名がついた岬。赤松といえば、とくにこの播磨地域ではあの赤松円心(則村)がすぐに思い起こされる。
 この地域に強い勢力を持っていた赤松氏は、千種川流域を押さえると同時に外港を求めてこの室津一帯に進出している。港の東の標高60メートルほどの室山に室山城(室津城)を築いたのが、1321~24年の元亨年間とされる。赤松円心の本拠地は、現在の赤穂郡上郡町で、室津からは北西におよそ20キロ離れた白旗城を中心とする地域であったらしい。
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 『太平記』という講談調とは言いながら一応の記録なども多くあるためか、この時代の情報はネット上にも多いうえに、時代が南北朝の動乱の最中であることもあって、登場人物の評価も極端であったりする。
 「円心くんキャラ」までつくっている赤穂郡上郡町のサイトでは「足利幕府誕生のキーマン 赤松円心」として、非常にうまくまとめられているので、少し長くなるがそこから引用させてもらうことにしたい。

 赤松円心は、鎌倉幕府の領する荘園・播磨国佐用荘(現在の兵庫県佐用町・宍粟市・上郡町の一部)の有力武士で、幕府御家人とも考えられる宇野氏の一族・赤松家に生まれました。宇野氏は、佐用荘東の宇野荘(佐用町東部)出身で、領主の公家・久我家にあやかって村上源氏末裔と名乗っていたとみられます。
 鎌倉時代の円心を含む宇野氏一族は、京の幕府出先機関の六派羅(ろくはら)探題と関りをもっていたといわれています。円心の住む赤松村は佐用荘の南端に位置し、山陽道に近い地の利を活かしながら、円心はいつしか一族全体を統率する力を蓄えていったとおもわれます。
 当時の朝廷は持明院統と大覚寺統に分かれていましたが、大覚寺統の後醍醐天皇が皇統の独占を図り、両統迭立を支持する鎌倉幕府打倒の兵を挙げると、後醍醐天皇の皇子・護良親王の令旨に応え、苔縄城(上郡町苔縄)で挙兵しました。船坂山、高田(上郡町内)において幕府方の軍勢を破りながら山陽道を東上し、摂津・山城で六派羅勢と激戦を繰り広げたことが、『太平記』に詳しく描かれています。そして、幕府方から寝返った足利尊氏勢とともに京を攻略し、建武政権の樹立に大功を挙げました。
 その後、政権内部の対立から護良親王派として失脚、佐用荘に帰郷しますが、政権に反旗をひるがえした足利尊氏に味方して戦い、『梅松論』によると、窮地に立つ尊氏に大覚寺統と対立する持明院統の光厳上皇の院宣をもらうよう進言したといわれています。
 院宣をもって九州で尊氏が兵を集めている間、新田義貞率いる建武政権の軍勢を、白旗城(上郡町赤松)に籠って約50日余り防ぎ止めました。やがて東上した尊氏勢とともに湊川の合戦で新田・楠勢を破り入京し、足利尊氏を征夷大将軍とする室町幕府の誕生にも大きく関わることとなりました。

 つまり、円心くんは護良親王に従って後醍醐天皇による建武の新政の道を開くうえで足利高氏(尊氏)と協力して活躍したにもかかわらず、その後では護良親王派であった円心くんは、後醍醐天皇とはうまくいかなかったようだ。播磨の守護はおろか、作用庄の地頭という低い評価に怒って播磨へ帰ってしまったとする情報もある。
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 建武の新政権のなかでもいろいろあって、結局足利尊氏が後醍醐天皇と対立し、尊氏追討の宣旨を受けた新田義貞の軍に追われて京から落ち延びるときには、赤松氏は足利尊氏の側についていた。室津の港から西へ落ちる尊氏を送った後、その赤松氏の赤松範資が守っていた室山城は、1336(建武3)年、新田軍に攻められて激戦の末に落城してしまう。このとき、多数の犠牲を出した赤松軍の将兵の供養塔が、赤松鼻にはあるのだという。
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 当然、新田軍の攻撃は赤松円心が篭城する山城の白旗城にも加えられていたが、よく持ちこたえ、新田軍は大軍をもってしてもこれを落とすことができないまま日が経ってしまう。その間に、足利尊氏が九州から巻き返しを図り、大勢力となって瀬戸内海を東進していく。
 撤退を始めた新田軍に、勢いを得た赤松軍が追撃し、新田軍は寝返りや投降者を出しながら敗走する形になる。そこで義貞は、兵庫まで兵を退いて楠木正成の軍と合流し、立て直しを図ろうとした。そして、ついに摂津国湊川で足利軍と新田・楠木連合軍の両軍が激突する。
 この後、和睦した後醍醐天皇は三種の神器を光明天皇に譲与し、室町幕府が成立するのだが、後醍醐の吉野への脱出によって、いよいよ南北朝時代に入る。室町幕府創業の功臣となった赤松円心は、備前・美作・播磨の守護となる。
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 その子孫一族は、曾孫の満祐の時代に嘉吉の変で一時断絶したものの、再興して播磨各地に根をおろし、応仁の乱を生き抜き、別所氏や小寺氏と名を変え戦国時代を迎えることになる。
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 赤松鼻の南西2キロのところで出っ張っているのは金ヶ崎。前に書いた金ヶ崎の項では尾根の上までは行ったのだが、その上からでは岬の先端がまったく見えなかった。
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 その先にある小さい島が君島で、これを結んでたつの市と相生市の境界線がある。その間にある少し大きい島は、金ヶ崎と釜崎の中間の沖にある蔓島。

▼国土地理院 「地理院地図」
34度45分59.12秒 134度29分28.42秒
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dendenmushi.gif近畿地方(2018/10/10 訪問)

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タグ:兵庫県
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