待たれた1984年がやってきてMacintosh(Mac)との長い付き合いが…=記憶遺産Part2-04 [ある編集者の記憶遺産Part2]
その前の年1983年から、Appleはゼロックスの研究をモデルにした(?諸説あり)Lisaというマウスやアイコンやウインドウをマウスのクリック、ダブルクリック、ドラッグなどの操作できるまったく新しいユーザー・インターフェイスを備えたモデルを出していた。それが1984年には安く小さくなって、Macintoshとして発売されるというニュースは、日本でも「ASCII」などでもうよく知られていた。
だから、一部の人間にとっては、1984(昭和59)年は待ちに待ったものだったとも言える。ジョージ・オーウェルの「1984年」に引っ掛けてコンピュータの巨人IBMに対する皮肉を込めてもじったCM(なんと、その監督はリドリー・スコット)の話題とともに、全米で年明け早々の1月には華々しく発売されたMacintoshは、その4月にはもう日本で発売された。
でんでんむしも待ちかねたなかの一人で、帝国ホテルで開かれた発表会に駆けつけ、その場で購入契約をしてきた。その当時は、Apple日本法人の力は整っておらず、Apple II からの関係なのか、東レやキヤノン販売の大手のほか、中小の販売代理店が入り混じっていたので、でんでんむしが買ったのもそんな代理店の一つだった。
値段は確か当時のお金で70数万くらいだったと思うが、はっきりと覚えていない。これ以降の数多くのMacの購入はすべて自腹で、会社で買ってもらったものではない。
記憶ははっきりしないが、おそらくその販売代理店の担当者が東京の仕事場に運んできてくれたような気がする。梱包を解いたという記憶がなく、赤と青と黄色とグレーの刷毛でさっと描いたような洒落たデザインの外箱の印象が強く残っている。中のマウスやキーボードの箱も同じようにデザインしてあった。
天板の後ろから片手を入れて、持ち上げられるようになっていて、キャノン販売は肩からかけられるオリジナルのケースも用意していた。それに入れて持ち歩くことも可能だったが、まるでクーラーボックスをしょった釣りおじさんのようだった。
それまでのBASICマイコンと違って、9インチの画面も真っ黒けに緑の文字、四角いカーソルが点滅するだけのものというのではなく、全体にグレー基調で、しかも画面の位置制御は自由自在。起動すると中央に小さなMacのアイコンがニコニコとあらわれる。
デスクトップという概念も、非常に馴染みやすく、すぐに慣れた。マウスでカーソルを合わせアイコンをダブルクリックすると、そのソフトやデータがボワーッと画面いっぱいに動くのも感動的だった。
メモリは128Kしかなかったが、まだ多いだの少ないだのも問題にならない。Macintoshには、あらかじめ別箱で標準バンドルされているソフトが2種類あって、それだけで充分に楽しめた。それはMacWriteというワープロソフトと、MacPaintというお絵描きソフトで、その箱を開けると当時まだめずらしかったSony製の2枚の3.5インチフロッピー・ディスクが入っていた。それをスロットに差し入れてソフトを読み込ませるという方式も素晴らしかった。
まだ、日本語は使えなかったので、もっぱらお絵描きで遊んでいたが、マウスで鉛筆や絵筆を選び、白い紙に自由に絵が描けるというのは、まさに驚異的だった。絵が描けなくても、丸や四角やいろいろな太さ濃さの線やアミが使えるので、そのおもしろさは充分に味わえた。1985年の年賀状は、当然このMacPaintでウシさんの絵を描いた。しかし、いくらお絵描きができても、日本語が使えない高いおもちゃがそんなに売れるわけがない。
もちろん、BASICも使えたのでプログラムをいじっても遊べたし、 Microsoft Multiplanという表計算ソフトも感歎ものではあったのだが…。
WYSIWYG(見たものを見たままに)が売りのMacintoshは、アメリカなどでは世界初のパソコン用レーザープリンタであるLaser WriterとAldus Page Maker(ページレイアウトソフト)が発売され、手軽なDTPマシンとしての地位を確かなものにしていた。実用という面では日本語がネックとなった日本と米欧では、周回遅れ以上の差がついていた。
英語のできないでんでんむしが、漢字はおろかカタカナも使えないMacintoshに、いち早く飛びついたのは、その問題はいずれ時間が解決するだろうと考えていたからだ。そして、これこそが編集者にとっては素晴らしい創造の道具になるに違いないという確信があったればこそである。
日本市場を伸ばしたいキヤノン販売の強力なプッシュと具体的な肝いりもあってのことだろう。Macintoshの日本語化は、意外に早くやってきた。発売の翌年の1985年には、512Kに漢字ROMを搭載するというかなり大胆なアップグレードが行なわれた。128kのバックパネル(開発者のサインが、その内側に刻印されていた)をすっぽり取り替えて512Kにするという荒技であった。
そしてさらに、それに呼応してエルゴソフトが日本語入力して処理できるFEP(EG Bridge)とワープロソフトEG Wordを発売し、なんとか日本語対応が進んでいった。
ただ、漢字が多い日本語のWYSIWYG化までには、さらに時間を要した。でんでんむしもさっそくLaser WriterとAldus Page Makeを購入して使ってはみたが、Page Makeは縦組みができなかった。だから、実用的な日本語DTPへの道はまだまだ遠かった。
それよりもすぐ近くにやってきたのは、RS-232cポートにモデムを繋ぎ、電話回線を使って行なうパソコン通信で、Nikkei-MIXやnifty-saveなどが発足すると同時に入会し、フォーラムの書き込みなどに参加したりしていた。それも1985年のことだった。当時のモデムの通信速度は300ボーで、ピーピーガガガ…という音とともに繋がる人間的な何かを感じさせた。
(2018/08/07 記)
タグ:MAC
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by Ujiki.oO (2018-08-08 05:47)