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それは1978年に偶然出会ったPET2001からすべてが始まったことになる=記憶遺産Part2-03 [ある編集者の記憶遺産Part2]

 エニアックからいきなり電算写植機に飛んだわけではい。電子計算機というものが大砲の弾道計算ではなく、実際に大手企業で事務処理に導入されるようになったのは、まだでんでんむしが大阪で雑誌の編集をやっている頃だった。その実情を知りたくて、道修町のある大手薬品会社で見学させてもらったこともある。そこで見たのはガラス張りの大きな部屋で穴の開いたカードやテープが飛んだり回ったりしていたパンチカードシステムだった。
 COBOLの本を読もうとしてみたが、ちんぷんかんぷんでまったく歯が立たない。まだまだ電子計算機は遠かった。
 それよりもずっと近くにあって、仕事に欠かせないものはテープレコーダーだった。今どきのICレコーダーの何百倍も大きくて重い、オープンリールのテレコを抱えて夜行に乗り、大阪=東京を行ったり来たりしていたものだ。
 雑誌から単行本の編集に移る間で、ちょっとだけ総務や商品管理の仕事をさせられたこともある。そこでは、電算機からはあまりにも遠く離れたところで、何人もかかって毎月の個別原価計算を何十枚もの大きな表の縦横計を、伝票をめくりそろばんパチパチで合わせるという作業に追われていた。
 数表の縦横計を合わせるというのは、一見極めて単純な作業のように思えるが、これが実際には思った以上に大変なのだ。
 とにかく、伝票と集計表の縦横が合わない。これなんとかならんのか。まだ、キャノンやカシオが卓上計算機を出す前のことで、売り込みにきた事務機屋さんから加算機を借りて試してみたり、手回しの計算機も一部使ったりしていた。(それから15年後、Macintoshの画面でMultiplanを初めて自分で使ってみた時には、これがもっと早くあれば…と思ったものだった。だが実際には、原価計算システムのほうを変えればすむことだった。)
 日本語タイプライターの簡易版パンライターを、会社で導入したのもその頃で、なにしろその当時の対外文書といえば、カーボン紙を挟んで下敷きを入れて書くといったありさまで、それをなんとかしたかった。映画のタイプライターのようにはいかないが、せめてカナタイプはどんなものだろうかと、これは自分でオリベッティが出していたものを買ってみた。実用にはならなかったが、経験にはなった。
 こんな具合で、要はモノ好き小道具好きといえばそうなのだが、こういうことも下地にあったのが、何十年にわたってコンピュータへの興味を持続させ続ける一因ではあったろう。
 1978(昭和53)年は、でんでんむしにとっては思い出深い年となった。その年の終わり頃に、あるシンクタンクの事務所で、Commodore社のPET 2001に出会ったからだ。それが「史上初のオールインワンパソコン」だという、白いカクカクしたダースベーダーの顔の部分にあたる小さなモノクロ画面では、デモのたて棒グラフを繰り返し描きだしているだけだったが、その時に「これだ!」と閃くものがあった。
 その年には、日本生産性本部の企画した、アメリカ東海岸と西海岸の出版社を視察訪問するというミッションに参加していたのだが、どこでもそんなものは見ることがなかった。(「スター・ウォーズ」は全米で公開されており、それを帰途のホノルルの映画館で日本公開に先駆けて観ることができた。)
 PET 2001が秘めている可能性は、一目見た瞬間からぼんやりとながら見えたので、それをどうしても自分で使ってみたかった。そこで社長に掛け合って買ってもらった。その辺のことは、当ブログのサブデータとしてくっつけている
に書いている。
 ただ買ってもらっただけじゃ申し訳ないし、当然これをテーマに本が出させると考え、それを実行した。けれども、あんまり畑違いの本を出すわけにもいかないので、ビジネスに使えるという点を強調し、実際に使えるデータベースの基本をBASICでプログラムした内容のあるものにした。
 そのため、制作には少々手間取ったが、1980(昭和55)年には本を出した。「くわしくなる本」と銘打ったその本は、日本で二番目となるマイコンの本だった。(数十日の差で一番目は逃したが、この本は非常によく売れて、何十倍にも元は取れた。)マイコンの本として、この数年前のNECの大内さんのTK-80の本をあげる向きもあるが、これはいわばマイコンチップの本であって、まったく別物であろう。
PETs.jpg PETm.jpg
 当時コモドールジャパンからもらっていた写真やPETのマニュアルの表紙、それで入力したプログラムのリストの写真も、古いCDフォルダから探してきた。四角く碁盤目に並んだテンキーとカタカナが使えるキーボードの左側にあるのは、記憶装置のカセットテープレコーダーだ。
 その頃になるとBASICで動くマイコンは、いろいろと出るようになっていて、輸入物ではTRS-80、APPLE IIがあり、国産でも日立、シャープ、沖など大手電機メーカーがこぞって8ピットBASICマシンを発売していた。NECもちょっと遅れてPC-8001を出す。月刊「ASCII」も出ていて、そのメインの記事はプログラムの画面を白抜き文字で並べたものだった。それらのプログラムの多くは、簡単なゲームなどで、まだホビー機の域は出なかった。
 1981(昭和56)にはコモドールジャパンが8ビットの家庭用パーソナルコンピュータVIC-1001を日本で発売した。これはキーボード状の本体だけで、ディスプレイは別に調達してつなぐ方式だったが、これは会社ではなく自分ですぐに買った。自分で買った初めてのマイコン、第一号がこれだったわけだ。これでBASICのコマンドを組み合わせて、自分でプログラムをつくっては遊んでいた。BASICでプログラムをつくるのは、なかなかおもしろかった。できたプログラムを読み込み、RUNと実行命令を入れると、その結果が画面に出るが、たいていは途中でエラーになってしまう。当然ながら、一文字のタイプミスがあってもダメなので、今度はそのエラーの原因を探さなければならない。それ自体がもうゲームのようなものだった。
 この後に出た、エプソンのハンドヘルドコンピュータも自分で買って、これと音響カプラをつなぎ、電話回線を使って会社のPET-2001との通信実験も試みた。通信といっても最初は自宅のマイコンから押したキーボードの文字が、会社のPETの画面に出るというだけのものだったが、これもその実験の過程と結果を本にして出した。それは1982(昭和57)年のことで、パソコン通信が始まる3年前のことであった。
 ワープロもこの頃登場している。当初数百万円もしたものがどんどん安くなり、100万円くらいで買えるものが出たところで、これは会社で買ってもらった。しかし、ちょっと使ってみてわかったのは、この商品はいずれ袋小路に入ってしまうだろうという芳しくない結論だった。RS-232Cポートを備えていながら、メーカーにはそれを使う才覚もセンスもない。ワープロ通信などと一部ではやし始めたのは、それからずっと後になって、ワープロという商品自体が行き詰まる直前のことだった。ワープロの活用術的な本も出してみたが、これは案外に売れた。
 日本語をキーボードから入力して、画面で確認し修正し、プリントできるというのは、アメリカ映画のタイプライターで記事を書く新聞記者の姿に憧れた少年の夢に近いものだったが、それを実現して伸ばしていくのは、ワープロではなくパソコンの世界で可能になっていく。改めて調べてみると、パソコンの売上がワープロ専用機のそれを上回るのは、ずっと後の1999(平成11)年のことだという。思っていたより、ワープロもしつこくがんばっていたことになるのだが…。
 そのほか、会社で買ってもらった小道具にもう一つ、1981(昭和56)年のSORDの機械があった。これはBASICではなく、PIPSという独自の簡易プログラム言語を前面に押し出したベンチャー企業の製品で、確かに使い方によっては企業の定型的な事務処理には実用的かとも思われた。が、あまり普及しなかったし、本も出してはみたもののこれもあまり売れなかった。このように、書籍出版の編集者という本業と、密接に関わりあっていた部分はあるのだが、それとて本流からは外れた余技のようなものだった。
 PET以来、毎年の年賀状はその年(前年)のマイコン・パソコン事情を反映したものでつくってきたが、1982年にはまだPETでキーボードから入力したアラレちゃん(その当時流行っていた)でカタカナだったが、1984年はVICのBASICで描いた線を組み合わせて干支のマウスで、漢字も使っている。
IMG_0984.jpg
 だが、その当時それぞれどんなテクニックを使ってこういうものをつくったのかは、もうさっぱり記憶にない。印刷はプリントゴッコだろうと思うけど…。
 Macintoshが登場するより以前の、でんでんむしの小道具歴は、だいたいそんなところだろうか。

dendenmushi.gif(2018/08/04 記)
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