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その昔少年雑誌の記事で初めて電子計算機というものがあると知ってから40年=記憶遺産Part2-02 [ある編集者の記憶遺産Part2]

 何度か書いているように、でんでんむしはコンピュータに強いわけではない。むしろ専門的なことはなに一つ知らずわからず、弱いほうだと言っていい。ただ、一ユーザーとしての歴史は、日本でのマイコンの歴史が始まったその時からあるので、まあそれは日本一(?)長いと言っていいのかもしれない。長いだけでほとんど進歩もなく、専門的な知識の積み重ねもない。ただ、コンピュータの個人的な使用に関しては「偉大なるドシロウトユーザー」として、長い間その周辺をウロチョロしてきただけ、というのが実態であろう。
 どうして、それらの分野が専門の畑でもない一編集者が、そんなことを続けてきたのだろうか。そもそも何があってそんなことになってきたのだろうか。
 日本が広島と長崎に原爆を落とされ、戦争に敗れ無条件降伏をした翌年に、広島市の東の端にある小学校(その当初はまだ国民学校だった)に入学したでんでんむしは、遊ぶことしか考えていないごく普通のぼんやりしたこどもだったのだろう。食糧も物資も充分ではなかった小学生時代の記憶は、極めて断片的なものばかりだが、その後半に少ない機会(多くは借りたもの)にむさぼるようにして読んだ少年雑誌の記事で、初めて電子計算機(「コンピューター」という呼び方が当時使われていたかどうかは定かでない)のことを知った。
 その記事は、アメリカで戦争中から開発されていたエニアックについて書かれたものだったが、どえらい数の真空管が詰まっているというその機械は大きな部屋の一つにも入りきらないとか、その目的は大砲の弾道計算をするといったことが書いてあった。戦争はもう終わってるし、それ以外にその機械がなにをするのかはよくわからないままだった。
 そろばん塾にもほんのちょっとだけ顔をだしたくらいで、かけ算の九九にもつまづくようなこどもも、中学生になると、計算尺にはいくらか興味をそそられる。どうしてそうなるのかが不思議で、この頃から不思議なものに関心が向く。
 英語も苦手だったが、日本語も不思議だった。漢字の書き取りで苦労するたびに、こんな複雑な文字を使わなければならないのは、大きなマイナスになるのではないかと生意気なことを考えていた。その頃から見始めたアメリカ映画などで、タイプライターで文字を打つ場面が妙に羨ましく思われた。
 計算はもちろんだが、文字を書くのも、そのうち機械ができるようになるのではなかろうか、漠然とそんなことも考えたりもした。毛筆で履歴書を書くという作業で、何枚も失敗してみる(それも最後の「賞罰なし」のところくらいまできて書き損なったりすると泣きたくなる)とそれはだんだんと確信に変わっていく。
 その出版社の入社試験に応募するときにもまだ履歴書は毛筆だったか、それともペンで横書きに書くコクヨの履歴書だったか、その記憶がない。専門雑誌の編集部に配属されて、否応なく活字と向き合い、原稿用紙にひたすら字画の多い漢字を書き綴る毎日となった。
 原稿用紙への筆記は、もっぱら消ゴムで消せる鉛筆(柔らかめの)で、万年筆は使わなかった。むずかしい字画の多い字も、辞書を引き引き書いていた。その頃は、大抵の漢字はスラスラかけたはずなのに、今ではさっぱりその字が書けなくなってしまっていて愕然とする。また書き取りでもやろうかしらん。(というだけで、結局やらないんだけどね)
 その当時は、まだまだ通常の印刷物では活版印刷が全盛の時代で、写真が多いものではオフセット印刷も使われていたが、もっぱら活字がメインの編集業務だった。
 活字は、一文字一本の鉛の四角い棒でできたハンコだと思えばよい。大きさと字体の違うセットが何種類も斜の棚に並んでいて、原稿と小さな木の箱を手にした文選工が、原稿通りに活字を拾っていく。木の箱に拾われて並んだ活字は、原稿と割付用紙(これも編集者がつくる)とともに植字工にバトンタッチされる。自分専用の台の前に陣取った植字工は、その活字とその周辺に配置される詰め物(活字がない紙の白いままの部分をつくる)を組合わせて、一ページごとに組んでいく。
 それは、雑誌部門から単行本部門に配属が変わってからも同じだった。大手の出版社では原稿をつくるのと校正をするのは別部門というような話も聞くが、中小出版社では読者に届ける印刷物の最後の仕上がりまで、ちゃんと編集者が見届けて、チェックしなければならない。自分の書いた文字が活字になって、考えたレイアウトに従って形になっていく過程にも大きな関心を持たざるを得ない。このため、編集業務では印刷所とのやり取りや行ったり来たりも多くなる。
 活版印刷では、活字以外の図版や写真などは、別工程で亜鉛板や銅板に焼き付けて細かいデコボコをつくったものを台の上に貼り付け、活字と印面を並べて印刷機にかけ、版につけたインキを紙に転写して印刷していた。
 記念にと活字もいくつか印刷所で貰ってきたことがあったが、いつの間にかどこかへ消えてしまって手元にない。こういうガラクタお宝を何十年も保存し続けるのも、なかなかむずかしい。その代わりなぜか、本では使わなかった亜鉛板(ジンク板)が一枚手元にある。活字よりも大くて散逸しにくかったのだろう。これは写真のアミを飛ばして製版した、1970年代後半頃の新宿のビル街の風景である。(ハンコの印面だから左右は逆)
IMG_0969 (1).jpg
 そういう活版時代は結構長く続いた(なにしろ、その基本はグーテンベルグ以来から変わらないのだから)が、その世界を変えるのもやはり環境変化という外圧と技術革新の進展であったといえよう。
 活字は鉛でできている。鉛は人体に有害な物質でもある。そういう認識がじわじわと印刷現場への圧力となり、ついには各方面で法的な規制も始まり無鉛化への対応は必須になる。一方では、高技能を要する人手に頼ることの限界や職場環境の改善も、印刷業界としては課題であったこともあってか、活字を使わず写植で版をつくるオフ化(ホットメタルと言われる活版に対し、写真植字はコールドメタルとも呼ばれたので、コールド化ともいう)と、それを電子計算機で処理するという電算化が徐々に進むことになる。
 こども時代に雑誌で見た電子計算機と、自分の仕事がここで初めて結びつくことになる。ただ、印刷所の電算写植機は、大げさな空調のガラス張りの部屋に鎮座していて編集者からは遠くにあり、活版印刷のようには実態がよくわからない。いくら言ってもなかなかいう通りにやってくれない、厄介なシロモノだった。
 しかし、活字の追放は、同時に文選や植字など現場のベテラン熟練工をも追放することになった。代わりに電算で原稿からの入力を任されたオペレーターは、熟練工のようには文字も日本語も知らなかった。このため、電算初期には随分と校正にも苦労させられたという記憶がある。
 活版から平版へ、活字から写植へ…。このテーマに沿って大小さまざまな動きが起こり、それはやがて大きなうねりとなって印刷業界と出版業界を飲み込んでいった。印刷物の多くはのっぺりした写植の平版印刷になり、活字がつくるちょっと凹んだ影のある風合いがなくなったと言って嘆く人も少なくなかった。
 それが、だいたい1970年代の終わり頃から90年代にかけてのことだったろう。記念すべき初代Macintosh もちょうどそのさなかに登場するのだが、それの前にまだ…。

dendenmushi.gif(2018/08/01 記)
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タグ:MAC
きた!みた!印(29)  コメント(2) 
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コメント 2

ハマコウ

コンピュータには弱く、職場では人に頼ることばかりで少し恥ずかしい思いもしています。
わたしは高校時代新聞部に入っていましたが、その頃、活字でやってくれる印刷屋さんは少なくなっていました。「やはり活字でなくては・・・」と言っていた上級生を懐かしく思い出します。
by ハマコウ (2018-08-01 17:25) 

dendenmushi

@新聞部ですか、ハマコウさん。でんでんむしもそうでした。もちろん活字時代。
「やはり活字でなくては・・・」という人は多かったのです。かっこつけではなく、やはり初期の電算写植とオフ印の文字の感じには、なんか違和感がありましたからね。
by dendenmushi (2018-08-02 08:05) 

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