1522 大地ノ鼻=横須賀市箱崎町(神奈川県)米海軍基地になる前までは横須賀鎮守府が置かれた帝国海軍の拠点だった [岬めぐり]
長浦湾を挟んで、大山崎の東530メートルのところにあるのが、大地ノ鼻。長浦湾の奥は主に海上自衛隊の基地になっているが、大山崎の出っ張りと、大地ノ鼻のある島はすべて米海軍の基地となる。この島が、長浦湾と東の横須賀本港の間を仕切っていて、本港の東の大きな出っ張りのほとんど全部が米海軍基地である。
横須賀本港の奥は、海上自衛隊、JR横須賀駅やそこから東へ続くヴェルニー公園やショッピングセンターなどがあるので、そこを歩けば目の前に米軍基地のドックが並んでいて、潜水艦や艦船が係留されているのが間近に見える。
だが、見えるのはそこまでで、その先の広大な基地には入ることも見ることもできない。(特定の開放日という例外はあるが)
大地ノ鼻のある四角くでこぼこした島は、地図で見る限り補給基地か何かのようで、基地の中心は本港東の出っ張りにある。地理院地図では、そのどちらにも「米軍施設」という表記があるだけで、日本の町の名前が明記されていない。
だが、経度緯度を探ってみれば住所表示も出てくる。それによると、島のほうは横須賀市箱崎町、その3倍も大きな出っ張りのほうは横須賀市泊町であるという。なるほど、箱崎町か。その箱のような島の先が大地ノ鼻なのだが、その北側でも埋め立てが進んだようなので、この岬も先端ではなく横っ腹にくっついているようにみえる。
しかし、地理院地図が米軍施設と表示する一方で、町名をいっさい表記しないのはどうしてだろうか。日米地位協定など諸々の事柄を忖度した結果なのだろうか。
この基地では、米海軍の軍人、軍属、またはそれらの家族などを合わせると常時2万人近い人々が、基地内とその周辺で暮らしている。基地内は各種店舗、学校、病院はもちろん、娯楽施設など生活に必要なありとあらゆるものが整備されているという。
基地内だけでは手狭だろうと、逗子市にあった旧海軍の池子弾薬庫の森を切り開いて米軍家族住宅にするというので、大もめにモメたこともあったが、今では思いやり予算で京浜急行逗子線神武寺駅には特別に、住宅敷地内から直接ホームに出られる専用の改札口も設けられ、電車には家族づれの姿が多く見られるようになっている。毎日、家族住宅のゲートからは、黄色い大型のスクールバスが出入りし、基地との間を往復している。
考えてみると、本国から遠く離れたこの地まで、黄色いスクールバスにいたるまではるばる運んでくるという彼らの情熱というか執念に、改めて驚かされる。だって、バスなんか日本にだってたくさんあるんだから…。
横須賀は、米海軍にとってハワイより西で最も重要な基地なのだ。その維持のためには、細大漏らさずアメリカ本国と変わらない生活をするつもりなのだ。
そもそも横須賀に最初に眼をつけたのは、幕府の勘定奉行小栗上野介忠順とフランス公使のレオン・ロッシュであったとされる。1864(元治元)年に製鉄所建設の適地を求めて横須賀にやってきた二人は、横須賀湾の地形立地が気に入った。当時、幕府はフランスの後ろ盾を当てにしていたので、ロッシュの主導によりフランス海軍の技術師であったヴェルニーを任命して、製鉄所の建設に乗り出すことになる。
基地の南部のドックを見渡す(ただし空母のドックは見えない)、バラの花咲くヴェルニー公園は、その彼の名を冠しているが、公園の片隅には、ヴェルニーと並んで、幕末の激動のなかで非業の最期をとげた小栗上野介の銅像もある。(横須賀鎮守府に所属していた軍艦長門碑や、反対側の駅の近くには戦艦武蔵の大砲もある)
横須賀製鉄所は、完成後に明治新政府に引き継がれ、横須賀造船所、海軍造船所、横須賀海軍工廠と名称を変えつつ、横須賀鎮守府が置かれて海軍の重要拠点化が急速に進む。1889(明治22)年には、もっぱら軍港のために東海道線から分岐して横須賀線も開通している。
戦争中は、よく知られていた軍港だけに、何度も米空軍の爆撃を受けている。敗戦直後の1945年9月そうそうに占領軍の米海軍によって接収されて、そのまま現在に至る、という考えてみればまことに不思議な命運を辿っている。
▼国土地理院 「地理院地図」
35度18分14.49秒 139度38分52.38秒
関東地方(2017/11/03 訪問)
タグ:神奈川県
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