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1521 大山崎=横須賀市浦郷町一丁目(神奈川県)この付近一帯はかつては津々浦々を凝縮したような地域だったのか [岬めぐり]

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 神奈川県横須賀市は、三浦半島の北東部にその中心部がある。市域は半島の東側を占め、北西側は逗子市と葉山町に隣接し、南端部は三浦市に譲っているが、その中間部では半島西海岸にまで及んでいる。この横須賀市の岬めぐりも全部終わったはずと思っていたら、地理院地図には確かにそれまでなかったはずの岬が、3つほど追加されているのを発見した。
 これはちゃんとフォローしておかないといけないと、さっそく出かけてきた。
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 もともと軍港の街としての長い歴史をもつ横須賀では、市の北東部の海岸線には、自然地形はまったく残っていない。日露戦争のときの日本海海戦で旗艦をつとめた戦艦「三笠」も、岸壁に固定されたままでいる横須賀新港も東にあるが、そこから北東にかけての一帯はすべて米海軍の広大な基地になっている。
 また、それに続いては、海上自衛隊の港湾施設があり、わずかに残された基地以外の岸壁の内側には、工場地帯がある。横須賀市の北の端に当たる直線の岸壁で囲まれた出っ張りの一帯は夏島町と呼ばれ、そこには日産自動車の追浜工場が広い面積を占めている。
 貝塚遺跡もある夏島というこの町の名前も、実際にかつてはここが名実ともに島であったことを示すものだろう。日産の北西には平潟湾につながる水路があって、この水路の岸が横須賀市と北隣りの横浜市との境界線になっている。通常市境などは水路の場合はその中央で線引されるものだが、日産工場敷地では横須賀側の岸が境界になっている。それは日産か横須賀市が欲どおしく、境界線いっぱいまで埋め立てを進めたからではないかという想像もできる。
 野島、八景島という島も横浜市側にあるが、埋め立てや護岸工事が進んで、多くは島と島や島と陸地がつながったり、水路と海水面はだんだん狭くなっていったものだろう。
 この付近には、そうした痕跡がたくさん残されている。汐入、長浦、田浦、深浦、浦郷、追浜、六浦、平潟、福浦といった地名を拾うだけでも、海水面が広く広がり、陸地の間に複雑に入り込んでいた姿を想像することができる。
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 京浜急行電鉄本線の追浜駅で電車を降り、いかにも地方の商店街といった風情のアーケードの通りを東へ歩いて行く。
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 アーケードはやがて切れるが、駅から1キロちょっと歩くと左手に日産自動車の工場や研究所などの施設に行き当たる。そこから右折して、今度は浦郷町の工場地帯を南に進むと、岸壁に出る。
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 そこは深浦湾という細長い入江で、周囲はぐるりと浦郷町。湾の北側は工場地帯で、南側は住宅が丘を上っている。
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 船舶修理の船台などがズラリと並んでいる入江の、出入口にあたる端の湾の南口にあるのが大山崎だ。
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 60メートルほどの小山から南東に向けて張り出した尾根の先がそうなのだが、そこへは行くことができない。この尾根の周辺がすべて米軍施設となっているからだ。したがって、浦郷町の工場地帯の南端岸壁が、大山崎をいちばん近くで見ることができる場所になる。
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 大山崎の米軍施設の西には、海上自衛隊自衛艦隊司令部という厳めしい表記が地理院地図には続き、その先が船越町という住宅が建て込む町になっている。
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 船越町を西に詰めていくと、標高50メートルくらいの峠があり、トンネルを西へ抜けると横須賀市から逗子市に入る。
 「船越」という地名は、全国各地に多い。だいたいそういう場所には低い峠があって、かつてはそこを船(舟)で越した(一部は船を曳いたり担いだりしなければならない)、ということから付いた名前であると思われる。
 船越にはもうひとつ意味がありそうで、船が峠を越すのではなく、島や陸を隔てる水路を船で越す、ということも考えられる。
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 横須賀市の船越町は、京急田浦駅から西へ、谷間を詰めて峠を越え、逗子の沼間の水路につなげるという意味の「船越」だったのではなかろうかと、でんでんむしは勝手に思い込んでいるが、実際のところはどうなのだろう。
 そう考える理由は、もしここを船が越えることができれば、今でいう東京湾から相模湾へ最短距離で抜けることが可能で、それは三浦半島をぐるりと遠回りするよりは経済的メリットがあったと思われるからだ。
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 この地域では、低い山の尾根筋に延びる谷間のことを谷戸(やと)と呼ぶ。ひだのように複雑な凸凹は浦々をつくり、その谷戸の奥のほうまで水路が広がっていた時代もあっただろう。それを考えると船越から沼間(これもいかにもの名前だが、もとは「沼浜」だったとされる)へ抜けることは、現在考えるよりは容易で現実的だったのではなかろうか。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度18分15.62秒 139度38分31.21秒
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dendenmushi.gif関東地方(2017/11/03 訪問)
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