1519 寺子ノ岬=鹿角郡小坂町十和田湖(秋田県)その昔教科書で初めて知った十和田湖のこと [岬めぐり]
でんでんむしが十和田湖のことを初めて知ったのは、こどもの頃に学校で習った教科書でであった。それは、和井内貞行という人が、その山の上の湖でヒメマスの養殖にひたすら苦心するという話だった。
以来、何十年経っても十和田湖もヒメマスも見ることもなく、まったく縁がなかった。そこへやっとやってきて、和井内貞行の養魚場などがあったと思しき辺りを遠くぼんやり眺めている。
しかし、見渡す限り山と湖面が続くばかりで、なにがどこにあるのか、さっぱりわからない。
大川岱という大川沢の裾が大きく丸く広がる平地があり、十和田湖プリンスホテルもそのへんにあるらしいが、それもはっきりわからない。寺子ノ岬もその北に位置するが、これまたほんの少し湖岸が膨らんでいるだけだから、どこがそうだかわからない。わからないだらけだが、十和田湖プリンスホテルに泊まるとかしなければ、その岬に近づいて確かめることもできない。
地図ではホテルと岬の中間に「和井内神社」という表記がある。すると、その付近が和井内貞行夫妻の活動の中心地であったのだろう。
休屋には十和田ビジターセンターという、環境庁か何かの立派な施設があって、そこには十和田湖のさまざまが展示紹介されている。もちろん和井内貞行についてもちゃんとコーナーがあって、そこにある写真が養魚場で、遠景に写っているのが寺子ノ岬であるような感じもするが、それも確かではない。というのも養魚場は何か所か時期によって移動しているからだ。
寺子ノ岬の北側には銀山沢と銀山という字地名もあり、そこで旅館「観湖楼」を営業し、人工孵化場もつくったとされている。彼は、養殖だけでなく、十和田湖観光の基礎づくりにも努力したという、もう一面もある。
彼は生まれたのは、小坂鉱山(前項参照)の南にあたる毛馬内村(現・鹿角市)で、南部藩毛馬内陣屋城代の筆頭家老職を務めていた家であった。ちょうど、井伊直弼が不平等条約である日米修好通商条約を結んだ1858(安政5)年で、成長する間に世の中は大きく変わる。
教科書には出てこなかった、その時代を生きた彼の姿を追ってみると、まず毛馬内時代には、戊辰戦争で南部と秋田の戦争があった。もめた末に奥羽列藩同盟に残った南部盛岡藩は、奥羽越列藩同盟を離脱して新政府軍に参加した久保田藩(秋田)と戦争するハメになったうえ、盛岡藩が負けるという混乱に直面したはずだ。その敗戦のために南部盛岡藩領だった十和田湖西部一帯も秋田のテリトリーに入ってしまう。
維新後、助教員を経て24歳のときに工部省小坂鉱山の十輪田鉱山に勤務するようになる。それからしばらくして、鉱山は藤田組に払い下げられ、吏員から社員に身分が代わる27歳頃から、貞行は養殖漁業に強い関心を示し行動を起こすようになる。その直接的な動機については、はっきりふれたものが見当たらないが、当初は鉱山で働く人々のため食糧調達を図る目的で始まったようだ。
当時の十和田湖は、長年にわたって魚が一匹もいなかった。いまどきのように、車でやってきて外来種を捨てていく不心得者もいなかったので、ずっと生命のない湖だったわけだ。湖の神様が魚を嫌ったからだと信じている者も多かったらしいが、奥入瀬渓谷銚子の滝の落差が、魚類の遡上を許さなかったから、というのが原因だろう。
目の前に十和田湖があるのだから、ここで魚が穫れるようになれば、と考えるのは自然だったのだろう。それでは、というので魚類の放流を始めたのは貞行が最初ではなく、何人かの人が試みていた。当初は、鉱山のための食糧調達という大義名分があったためか、上司の許可と支援も得て、漁業権の設定を行ない、コイの稚魚を放流することから始めた。ところが、貞行のいた十輪田鉱山のほうが休止に追い込まれ、小坂への転属が言い渡されるに及んで、藤田組を依願退社して養殖漁業に専念することを決心する。
1900(明治33)年、43歳の頃、サクラマスやビワマスの卵を買い入れ、それを孵化させた稚魚を放流するようになるが、成果は上がらず借金だけが膨らむ。そのうちたまたま、アイヌ語でカバチェッポという支笏湖の回帰性のマスの情報を得るが、これこそが後にヒメマスと呼ばれるようになる魚だった。苦しい生活のなかで、なんとか資金を調達し、青森水産試験場の支援を受けて、50,000粒の卵を買い入れ、その孵化に成功して稚魚30,000尾を放流したのが1903(明治36)年で、このときに自分の名を放流したヒメマスにつけた。
しかし、それが成功したかどうかは、成魚となったヒメマスが放流地点の桟橋付近まで回帰したことが、確認できて初めてわかる。貞行の養魚事業にかける思いが尋常でなかったのは、回帰を待つ不安な日々のなかでもへこたれず、ただ待つだけでなく日露戦争勝利を記念して新しい孵化場の建築を始めていることでもわかる。その場所は、休屋に近い生出の湖岸であった。
ヒメマスの群れが戻ってきたのは、1905(明治38)年の秋であったという。
教科書ではそのあたりのことを感動的に書いていたのだろうが、細かいことまではもう覚えていない。
▼国土地理院 「地理院地図」
40度28分3.66秒 140度50分7.57秒
東北地方(2017/09/06 訪問)
2018-01-13 00:00
きた!みた!印(30)
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