1483 中島の崎=苫前郡羽幌町大字焼尻(北海道)羽幌港から船に乗ってふたつの島へ着いた焼尻島でただひとつの名のある岬 [岬めぐり]
羽幌港と市街地は多少離れているが、沿岸バスは本社ターミナルと港の間に、萌えキャラのシャトルバスをワゴン車で運行しているので、帰りはそれに乗った。
羽幌=焼尻(やぎしり)・天売(てうり)航路も沿岸バス系列らしい羽幌沿海フェリーが運航している。フェリーのおろろん2号と、高速船のさんらいなぁ2号が交互に、羽幌=焼尻=天売=焼尻=羽幌の順につないでおり、往復キップはない。行きは高速船、帰りはフェリーになったが、高速船では天売まで1時間、フェリーだと35分よけいに時間はかかる。
客室も高速船は座席スタイルで、フェリーは大部屋ごろ寝タイプになる。
焼尻島(やぎしりとう)にはヤギではなく羊が飼われているらしいが、この島の岬は焼尻港北側の中島の崎ひとつだけ。ここは下船せずに、船からの岬を眺めつつ天売まで行くことにした。
島民は200人ちょっとくらいで、東西に3.9キロ、南北にいちばん幅があるところで2.2キロの小さな島である焼尻島は登山靴のような形をしていて、かかと部分の上のほうに焼尻港があり、その北に中島の崎が続いている。
かかとの下部分にはいちおう灯台もあって、岬らしい出っ張りもあるのだが、なぜかそこには岬の名はついていない。
その沖には神居岩という岩礁があって、それを知らせる灯標識が立っている。
羽幌町の西北西25キロにあたるこの島も、当然ながらアイヌの島だったわけで、アイヌ語源説もふたつある。どっちを採用していいのかわからないが、ひとつは「エハンケ・シリ=近い島」で、いまひとつは「ヤンケ・シリ=水揚げの島」だという。
音では後者のほうが近いように思われるが、意味的には前者のほうがしっくりくるような感じがある。なにせ、この島は羽幌の海岸からもよく見えているのだから…。
焼尻港で数人の乗客を降ろしまた乗せると、船は島の海産物や羊などを描いた壁画の岸壁を出る。近頃ではどこの港でもこうした壁画をよく見かける。それは、地元の小中学校のこどもたちの卒業制作だったりするのだが、ここのはどうかわからない。その壁画の、右端に描かれたものはなんだろうと、しばらく考えてやっとわかった。
それは羽幌港で、真ん中に焼尻の島と港があり、左端の赤いのは沈む夕日という壮大は構図なのだった。
港を出て、中島の崎を回り込む。段丘のようになった緑の岬の上を、道路が登っているのがみえる。
これが島内を一周する道道255線につながるのだろう。島の集落の大半は、港のある東浜とその南の白浜の海岸に集まっている。残りの家々は、比較的傾斜のゆるい島の北側の海岸にある豊崎と西浦にあって、島の南側にはほとんど人家がないようだ。
中島の崎という名はアイヌには関係がなさそうだが、他の多くの岬がそうであるように、名前の由来などの情報は見当たらない。天売と羽幌の間にあるから中島なのかとも考えられるが、単に中島さんという人が最初に自分の名で命名しただけなのかもしれない。
これだから、ほとんどの場合、岬の名前には深入りできないし、しようもないのだ。だが、これはそんな情報にはなんの価値もないと、その伝承をさぼってきた後世の責任であるような気が、だんだんしてきている。
岬を回ると、今度は船は西南西に進路を取って正面に見えてい天売島をめざす。名前のない焼尻最西端の出っ張りから、天売島の東端である太郎兵衛崎までは3.7キロほどしか離れていない。この間の水域には、地理院地図では武蔵水道と明記している。さては、武蔵坊弁慶さん、寿都の弁慶岬からここまで伝説は足を伸ばしてきたのか、と思ったら違っていた。
1925(大正14)年旧日本海軍の測量船であった「武蔵」が、この水域にやってきて測量したことからついた名であるという。
ほらね、こういう具合になんらか命名の元になった由来というのは、なにかあるはずなんだろうけど…。
▼国土地理院 「地理院地図」
44度26分45.51秒 141度25分35.47秒
北海道地方(2017/07/03 訪問)
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