1461 泊崎(はつざき)=つくば市泊崎(茨城県)かつての地形を想像して特別に岬と認定して一項目に [岬めぐり]
干拓地と市境の不思議は、西谷田川のずっと南にもつながっている。二本の谷田川に挟まれた台地は、先細りになってその先端を丸く沼の水面に突き出しているのだが、その先端部の南側の田んぼ一帯が、やはり龍ヶ崎市の領域になっている。
前に、牛久沼の水面は全部龍ヶ崎市に属している、と書いていた。ということは、龍ヶ崎市とその沼周辺の他の隣接自治体との境界線は、だいたいにおいて沼の岸で引かれている。それが原則のようなのだが、水面だけでなく、一部では干拓地も取り込まれているところもあるのだ。
それにも、それぞれなんらかの理由があるに相違ないのだが…。
つくば市の市域では、最南端部にあたる台地の先端である泊崎の南には、台地の裾に数軒の民家がある。その敷地はつくば市だが、その前の広い水田になっている干拓地と、その先の水面は龍ヶ崎市である。水田の持ち主の家かどうかはわからないが、家の門柱の上には、大きなカエルの石像が乗っかって、沼を眺めていた。こういう台の上に乗っかっているのは、狐とか犬とか、獅子とか、あるいはたまに牛とか、沖縄ではシーサーとか、だいたい相場が決まっている。カエルというのは見たことがない。おそらく、日本中探してみてもここだけなのでは?(筑波山麓にはあるのかエ?)
カメからの連想だろうか、背中に小さいのが乗っかっている。こんなことはありえないのだろうが、いかにもありそうに思えるのがおかしい。おんぶカエルはたくさん見てるが、あれはさる行為中のカップルであって、親子ではないし。
どういう不運がその稀なるカエルを直撃したのか不明だが、左の門柱のカエルの顔はかわいそうに半分かけ落ちているようにもみえたが、よくわからない。
それにしても、りっぱなカエルだ。こんなでかいカエルの石像を門柱に掲げることにした理由も知りたくなってしまう。残念ながら「ごめんください。通りすがりの者ですが、このカエルは…?」と尋ねて戸を叩くほどの勇気もない。そこらに人影でもあれば、きっと声をかけただろうが…。
もちろん、沼とカエルはすぐに結びつく。現に終点でバスを降りて、沼に向かうとすぐにウシガエルの独特の鳴き声が聞こえてきた。が、だからといって門柱の石像には結びつかないし、この付近にそういう慣習があるというわけでもなさそうだ。
茎崎から乗り換えたつくバスは、いちおうつくば市の最南端の台地の上に開けた自由ヶ丘を経由して富士見台という住宅団地までやってくる。ここが終点でまた折り返すバスの運転手も、ここで交代するようで、交代の運転手は小型車を運転してバス停で待っている。バスが来ると、バスと小型車の運転を交代して、小型車はどこかへ行ってしまった。どこへ行くのだろう。
こういう交代は、どこか別のところでもなんどか見たような気がするが、すぐに思い出せない。あれは、富山の氷見でもあったかな。
富士見台の住宅地から、ゆるい上りの道を行くと、関東ではめずらしいといっていよい竹林があった。なんとなく城跡っぽい雰囲気はある。
…と、竹林のはずれに、なんと「↑岬」という小さな看板があるではないか。
おおっ! やっぱりここはれっきとした岬なのだ。
なおも行くと、なんとこれが「岬食堂」という川魚料理店の案内標識だったのだが、やはりこの台地の出っ張りが確かに「岬」であるという認識の証拠にはなる。
(これ、「つなぎ」ではなくて「うなぎ」です ↑ 。そんなこたあわかってる? はいそうですよね。)
つくば市の領域である台地の先端には、地図ではお寺のマークがあり、龍ヶ崎の市域になっている沼岸の平坦部には神社のマークがついている。
まずは、下の神社から訪ねてみよう。
泊崎の平坦部の先端は、大きな樹木も茂っておらず、ただろくに整地もされていない空き地が、沼に面している。いささか異様にも思える光景が、そこには展開している。神社の祠がふたつあるのだが、並んでいるとはいえない。それぞれが近くだけれどもお互い関係ないよね、とでも言い合っているような風情である。
しかも、そのひとつのほうは、道路から細い参道があるのだが、それと神社の周囲がぐるりとフェンスで囲まれている。当然、向こう側で抜けられるものだと思ってずんずん入っていったが、祠を取り囲むフェンスは厳重で、出られない。結局元の道路まで戻らないと、抜け出せないしくみになっていた。回りに樹木はないので、隣の祠と鳥居もすぐそこに見えるのだが…。
フェンスで仕切られた神社は空き地の南寄りにあったが、隣の祠は空き地の真ん中に鎮座している。この鳥居の扁額には「七浦辨財天」とあり、フェンス囲みのほうは「泊崎弁財天」という名前である。同じ弁天さまを祀っているのにもかかわらず、明らかに互いに別々の神様を祭る別々の神社であることをことさらのように強調している。どうしてこんなことに…?
その名からして、フェンス内の弁天さんは「泊崎」を名乗っている。これは沼の水面ではなく、岬のように突き出た台地の突端(つくば市)である。一方の広い空き地の真ん中にぽつんと立つ祠には「七浦」という名がついている。これは明らかに沼の水面(龍ヶ崎市)のあちこちの岸を総称したものと言える。
それが示していることは、フェンスの弁天さんはつくば市で、空き地の真ん中にある弁天さんは龍ヶ崎市、行政区分境界は弁天さんをも二分しているということなのだろう。
「七浦辨財天」に氏子や管理をする人がいるとすれば、この付近で龍ヶ崎の市域には人家は一軒もないので、その人たちは龍ヶ崎から船に乗ってやってくるか、茎崎橋などを大迂回し遠回りしてやってこなければならないことになる。
行政区画とその線引きというのは、おもしろいものだが、いろんなところに大小さまざまな影響を及ぼす。その線引きはどのようにしてできるのだろうか。
ごく大雑把に言えば、その昔の勢力争い・武力闘争の帰結としての棲み分けが、長年に渡って基本的に継承されてきているから、ということがある。それも、誰が親分か、誰が支配していたかは時代によってどんどん変化するので、一筋縄ではつかまえられないが、最終的には明治の廃藩置県とその中の町村もその線引きを引きずりながら大筋が定まっていた。そのうえに、近年の市町村合併でまた塗り替えられてきた。
町村単位の線引きは、やはり戦国時代の各地方豪族の支配と、その闘争の拠点となる城と支配地が、大きく影響しているはずであろう。
龍ヶ崎市にも牛久市にもつくば市にも城があったが、それらはみな当然、周囲からはちょっと小高くなった台地で、戦略的に重要と思われる地を選んで築城されていた。
沼の上に張り出した泊崎などは、見るからに城があってもよさそうな場所であった。そして、実際にちゃんとこの台地の上には泊崎城という城があったのだ。
泊崎城を築城したのは、多賀谷重経という天正年間の地方豪族で、群雄が割拠する1587(天正15)年のことだとされているが、彼がこの地を選んで築城したのは、牛久城と足高(あだか)城でこの周辺の支配を固めようとしていた岡見氏の勢力圏にくさびを打ち込んで分断する、という意図があったとされている。
牛久城は、現在の牛久市城中町、根古屋と呼ばれる台地付近にあった。そこは泊崎からは東北東に1.2キロほどのところである。また、足高城というのは、泊崎から西へ2.5ほどのところつくばみらい市城中で、やはり当時は沼に突き出た台地の上にあったらしい。現在は台地は水田に囲まれているが城中や足高という字地名は残っている。
泊崎にも城跡などの痕跡は既にないが、先端部にあったお寺のマークは太子堂であった。弘法大師の遺徳を偲んで建てられたものだろうが、ここから正面1.3キロ先に見えるのが、龍ヶ崎市の庄兵衛新田町付近になる。北には筑波山も遠く見える。
南の展望はあまりきかないが、泊崎の南はつくばみらい市(これもなんだかなあという名前だが)なので、飛び出している泊崎の細長い出っ張りだけがつくば市なのだ。
まあ、そんなこんなでここは国土地理院が認める岬ではないけれども、諸事情を総合勘案して、岬の一項目に加えることにした。
▼国土地理院 「地理院地図」
35度56分53.53秒 140度7分16.84秒
関東地方(2017/06/14 訪問)
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