SSブログ

番外:茎崎=つくば市森の里・小茎・下岩崎・茎崎・旧稲敷郡茎崎町(茨城県)住宅団地が点在するここらは稲敷郡茎崎町だった [番外]

kukizakiD-1.jpg
 幾筋もの複雑な切れ込みを抱えた台地と、その間を埋める沖積(ちゅうせき=流水が運んだ土砂などが堆積すること)低地がつくる関東平野のこの付近では、貝塚やそれを含む遺跡も多いという。小貝川という名も、小さな貝殻がたくさんあるというところから、この字が使われるようになったものだろう。
kukiざき周辺2-4.jpg
 台地の上は古くから人が住み着き、その下の海からは豊富な海の幸に恵まれていたのだろう。現代では、その丘の上を選んで住宅団地がいくつもできているようだ。牛久駅前のバス停からは、森の里団地・梅ケ丘団地・緑が丘団地・刈谷団地・桜ケ丘団地・つつじが丘といった行く先表示がある。
 このうちの緑が丘団地行きの関東鉄道バスに乗れば、牛久沼の北部を横断する茎崎橋を渡って、茎崎に行くことができ、そこから乗り換えて泊崎(はつざき)の手前になる終点の富士見台まで行けそうだ。そう思って乗ったバスの運転手さんに確認してみると、それなら橋を渡る手前の茎崎窓口センターで降りて「つくバス」に乗り換えたほうが料金が安いという。茎崎からはつくば市になるので、やはりバス会社の路線網は、市町村境界を厳格に守っているらしい。これには、昨今のコミュニティバスが増えたこともあってその傾向に拍車がかかる。
 教えてもらったとおり、「茎崎窓口センター」では、少し離れたところにあるつくバスのバス停乗り場からすぐに乗り換えができたが、なんかヘンな名前のバス停だなあ。
くきざき周辺-10.jpg
 牛久駅を出て、国道9号線を北上し、田宮(たぐう)から左折して西へ向かうところから、もう牛久市を離れてつくば市に入っていた。1960年代から開発が進んだ筑波研究学園都市の周辺では、どこも急激に人口が増加したが、稲敷郡茎崎町(くきざきまち)も当時全国一の人口増加率を記録して1983年に単独町制を敷いたが、2002年つくば市に編入されている。窓口センターというのは、合併後の茎崎地区の住民サービスのために、旧町役場のあとにつくば市が設けた行政窓口(支所)のようなものなのだろう。その周辺、橋の東側は小茎という字地名がついていて、その北西側の沼岸に森の里という名の大住宅団地が広がっている。
kukiざき周辺2-2.jpg
 茎崎の名は、牛久沼の細長い水面を挟んで、その東西に渡っているのだが、こういう平らなところでは、どのようにして縄張りができるのだろう。Wikipedia からその経緯を探ってみると、このようになっていた。
  
・1972年(昭和47年) - 境界変更により稲敷郡茎崎村が龍ケ崎市佐貫町の一部を編入。稲敷郡茎崎村佐貫町となる。
・1978年(昭和53年)
 7月24日 - 佐貫町を森の里に改称、同時に村内の他の大字の一部を編入。稲敷郡茎崎村森の里となる。
 10月23日 - 9月1日に龍ケ崎市から再編入した佐貫町を森の里に編入。
1983年(昭和58年)
 1月1日 - 茎崎村の町制施行により稲敷郡茎崎町森の里となる。
・2002年(平成14年)
 11月1日 - 茎崎町がつくば市に編入され、つくば市森の里となる。
 
 これによると、近年でも境界線の変更が行なわれていること、元々龍ケ崎市の市域だったところを編入していることなどが伺えるが、再編入の実態はよくわからない。牛久沼の水面はほとんど全部龍ヶ崎市佐貫町に属しているが、沼岸の一部には葭ヨシが繁茂して半分陸地化しつつあるところもあろう。つくば市側で住宅地開発が行なわれるときに、造成工事のときについでに取り込んだほうがいいという事態があったのだろう。
 もうひとつ、「森の里」というのは開発された当初の住宅団地の名前であろうが、それがそのまま「つくば市森の里」という地名になっている。
くきざき周辺-12.jpg
 この付近では、大小さまざまな住宅団地があちこちに点在しているが、森の里は大規模なほうであろう。地図をみてもその存在感が独特で、真っ直ぐな直線によって仕切られた沼岸からすぐに区画された住宅地が広がっている。
 それもこれも、筑波研究学園都市の周辺開発によるものだ。1970年代になにもない田園地帯に、大学や各種研究機関を集めて計画的な大規模な街づくりをしようというのは、なかなかの発想だったとも言えるが、そういうものが集まれば、周辺にたくさんの住宅が必要にもなる。
 森の里は、そうした住宅団地のひとつだった。
くきざき周辺-2.jpg
 かつての旧町の名残から、小学校や中学校、高校、運動公園、老人福祉施設、公民館、病院…といったものにはことごとく茎崎の名を冠している。それらは茎崎橋の東西両側に点在している。
 茎崎という地名に惹かれてきたのも、牛久沼の東側、茎崎橋付近にそれらしい出っ張り地形が明確にあるのかどうかを確かめるためだった。だが、茎崎橋の周辺では、沼の岸には葭(あしよし)の類いが緑の島をつくってはいるが、地形的な岬といえるほどのものではない。
くきざき周辺-4.jpg
 茎崎の名が、沼の岸に生える植生に由来するものだろうという推測はできるが、確かめるすべもない。
くきざき周辺-1.jpg
 橋の付近は、牛久沼の東側が北に深く延びているところにあたるが、ここらは沼も細長くまるで川そのもののようになっている。実際、地理院地図でも茎崎橋から北側の水面には、谷田川と記載している。ならば、川が牛久沼になるのは、どこからなのだろうか。
 これも明確にはわからないのだが、推測できるひとつには茎崎橋から南側が牛久沼、という見方はできそうだ。
 それというのも、橋はそもそも両岸の地盤が固いところにしか架けられないし、橋から南の両岸には後年の埋立干拓でできた水田や畑の低地が続いているので、そこらも昔は水面であったと想像できるからだ。
うしくぬま周辺M-2.jpg
 その一部沼の東には「弘化新田」という名も残る。弘化というのは、江戸時代後期、1844年から1847年までの期間(天保の後、嘉永の前)だから、その頃に進んだ干拓による新田だったわけだ。
 谷田川に比べると、西谷田川はずっと細く短く、茎崎運動公園の西の上岩崎付近では干拓地の間を流れる水路となって、途中細見橋の北側で少し膨らんでまた水路になって沼につながっている。
 その水路の北部に架かる上岩崎橋の付近では、西側干拓地の一部が、きれいに定規で線を引いたように長方形を描くように直線で仕切られ、そこに龍ヶ崎市の市域が食い込んでいる。
kyokaiiM-1.jpg
 これまた、どういう理由によるものかわからない。憶測をたくましゅうしてみると、地理院地図には上岩崎橋の西に発電所の地図記号があるのと、なんらか関係があるのかもしれない。しかしねえ、発電所って近代のものだし、しかも干拓地の真ん中の発電所というのもヘンだし…。発電所というより揚水場のようなものなのか?
iwasakihatudennM-1.jpg
 ほんとに、おもしろいことはどこにでもいっぱいある。もっともそれを「おもしろい」と思えるかどうか…のハナシだけど。
kukiざき周辺2-3.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
35度59分11.83秒 140度6分18.75秒
kukizakiM-1.jpg
dendenmushi.gif関東地方(2017/06/14 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ
その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ

きた!みた!印(22)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

きた!みた!印 22

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました