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番外:牛久沼=龍ケ崎市佐貫町・取手市・つくばみらい市・つくば市・牛久市(茨城県)関東平野と川とそして沼 [番外]

 ここ半年も岬めぐりに出かけられずにいた。ブログの新規アップ更新も、4月の半ばいらい3か月もストップしていて、まったくほったらかしになっていた。これだけサボっていれば、ランキングとやらからも静かに消えていくことができるとだろうと思っていたのだが、あにはからんやなかなか消えない。
 消えるまで待つことにもさほど意味がないので、ぼつぼつそっと(密かに?)復活してみることにしよう。
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 ずっと関東も南のほうに暮らしてきたので、北のほうはなにかと不案内でなじみがない。やたらだだっ広くて、山もない平野では、夏場のこの時期だとかなり早くからアサーッ!とばかり、朝日が照りつける。
 見えるところに山がないと、なんとなく背筋が寒くて落ち着かないのは、でんでんむしがどこでもいつでも山がすぐ後ろにある、西日本の育ちだからだろう。(もっとも、日本では広い平野のほうが少ないのだから、なにも西日本に限ることではない。)
 常磐線に乗ろうとやってきた上野駅では、「常磐線」と表記したホームが何本もあって、ちょっと迷い考えさせられる。上野東京ラインという線もできて常磐線が品川まで行くようになったこともあるのだろう。長い横須賀線と同じ15両編成の電車が、利根川を渡り、取手の街を過ぎると、やっと緑のポコポコした丘や田畑が現れる。このあたりは関東平野のほぼ中央付近にあたる。
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 この関東平野は、いったいいつどのようにしてできたのだろうか。もちろん、専門的にはそう簡単に言えないのだろうが、専門家でないでんでんむしは、勝手に簡単に言ってしまえる。
 現在のような日本列島の形ができたのは、1650万年前に起こった日本海の拡大をともなう一連の地殻変動によるが、この頃に後に関東平野となる付近では列島の元になる地塊が二つに折れ曲がる。地殻が割れ沈降が起こる。その後、その上には何度かの海進や、大規模な火山噴火による降灰、さらに分厚い堆積を繰り返す。台地とその間のV字谷ができ、さらにその谷が数知れぬ水流が運んでくる堆積物で埋められていく…。
 約1万年~5,500年くらい前、歴史的には縄文時代と呼んでいる頃には、大規模な海進が起こり、谷も低い丘も海に没し平野の奥までリアス海岸になってしまう。それから海が再び退くと、低地は土砂が堆積して埋められ、干潟や湿地が広く拡大していく。そうした時代がこの前後約1万年も続く。やがて、沖積層も乾燥して干上がり、どこまでも連続する低地のなかに、川が流れ、大きな水溜まりが残る。また、雨のたびに氾濫して流れを変える何本もの大きな河川は、ところどころに三日月湖や池を残していく…。霞ヶ浦や印旛沼・手賀沼や牛久沼なども、そのようにしてできた。
 藤代だか佐貫だかの駅のホームには、カエルの歌のメロディが流れていて、なんとなくホッとする。でんでんむしやカエルは、昔からの古いなじみなのだ。
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 藤代の駅は取手市で、小貝川の鉄橋を渡る佐貫の駅は龍ヶ崎市で、そのつぎの駅が牛久駅だ。牛久にはちょっと所用があってやってきた。その所用とは関係ないが、牛久と言えば牛久沼であり、小川芋銭であり、住井すえであろう。いずれも名前だけは知っているという程度だ。
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 芋銭にあやかってかカッパのタイルもはめ込まれた橋上駅の牛久駅を降りたところから、関東バスに乗って茎崎へ向かう。どうやら、牛久から牛久沼へ向かうには、丘の上に広がっている住宅団地へ行くそれが唯一のバスルートらしい。
 牛久駅から牛久沼までは、西へ直進して2キロちょっとのところで、その北が茎崎だし、牛久市南部の龍ヶ崎市との境界付近で、湖岸を分け合っている。
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 ところが、おもしろいことに牛久沼の水面は、牛久市の市域ではないのだ。牛久市だけではない。その周辺で並んで沼を取り巻いているつくば市もつくばみらい市も、沼の南端に接する取手市も、同様に牛久沼を市域にしていない。どの市もみんな市域は湖岸までで、沼の水面は取り込めていない。
 では、牛久沼の水面部分は、どこの市域に所属しているのかといえば、それは龍ヶ崎市である。牛久沼の水域部はずべて龍ヶ崎市佐貫町になっている。
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 こういうケースはめずらしい。このような内陸水域に境界線を引くときは、そのほとんどの場合、水域の中央付近で境界線が引かれることが多いものだが、ここでは違う。
 常磐線に龍ヶ崎という駅はなく、市の中心部は、JR常磐線の佐貫駅から南東に延びる関東鉄道竜ヶ崎線で東に入ったところになる。そこは、庄兵衛新田町という牛久沼岸からは6キロも離れている。では、なぜ牛久沼は龍ヶ崎市なのだろうか。
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 龍ヶ崎市もそのことについてはなぜかサイトでも口をつぐんでいるが、一説によると江戸時代に沼の干拓事業に失敗した桜井庄兵衛の借財を、龍ヶ崎の農民たちがかぶってきたからだという。
 沼岸に細長く残る庄兵衛新田町は、庄兵衛の干拓が成功していれば、付近の島も取り込んだ広い干拓地になったのだろうか。干拓には失敗したが、この付近は、近年うな丼の発祥地として売り出し中である。
 牛久沼は水深1~2メートルというから、ほとんど浅い水溜まりのようだが、これはもともと川だったところが膨らんで沼になったからだろうか。牛久沼は竜の角かヒゲのように二本に分かれた細長い水域が北北西に向かって伸びている。それそれ谷田川と西谷田川という二本の川で北に延びているが、沼で合流した流れは南の端で八間堀と呼ばれる水路によって小貝川につながっていく。
 牛久沼は、いうなればその小貝川の支流のひとつが、ちょっと堰き止められて膨らんだ…というようなものだろう。
 その小貝川は、北部で渡良瀬川や鬼怒川の流れを取り込んできた利根川と、取手市の東南部で合流している。小貝川も鬼怒川も、今でも洪水のニュースに出てくる名前だ。谷田川はせいぜいつくば市の北部、加速器研究機構のある台地付近までで終わっているが、小貝川と鬼怒川は近寄れども合流することはなく、競うようにそれぞれ支流を広げ、関東平野の北部のヒダに沿って深く入り込んでいる。
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 関東平野は、無数に入り組んでいる水流の筋を合わせて理解し、把握しておく必要がある。小貝川も鬼怒川も利根川も、基本的に北から南へ流れているが、利根川はまるで渡良瀬川や鬼怒川と小貝川の流れを遮り、それを受け止めるようにして東へ流れていく。平野の西を流れる荒川もそうだし、だいたいにおいて、古東京湾からの道筋を伝えてきた関東平野の川は、南の湾に向かって流れているが、利根川だけが東の太平洋の海岸へ向かって流れている、と見ることもできる。
 これは広く知られているように江戸時代に行なわれた、利根東遷という大土木工事によって流れを東に誘導したからだ。そして、それにともなって江戸川という流れができたのだが、それ以前の利根川は江戸川のさらに西側を流れていた。
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 その昔、平野を流れ下る川は、大雨が降るたびに大水を出し、流れを自由自在気ままに変えながら下る暴れ川だった。そこで、平野に暮らすためにはこれをコントロールする治水対策こそが、施政者の大きな課題となったわけだ。そして、現在でもそれは変わらない。
 だが、もうひとつの側面も忘れてはならない。川は交通流通手段としても重要な役割を果たしていた。川と川を結びつなぎ、平野に張り巡らされた水路は、道でもあったから、たとえば、伊能忠敬の時代、佐原から江戸まで船で往来できたというくらいだから…。
関東平野-3.jpg
 話が膨らんで、流れが変わってしまった。
 この沼には、岬はないのだろうか。霞ヶ浦にはいくつもの岬があったが、小さな牛久沼にははっきりした岬はない。茎崎とか岩崎とか、泊崎(はつざき)といった地名はあるものの、国土地理院が認める岬ではない。
 崎のつく地名は無数にあって、そのなかにはいかにもかつては岬だったとわかるものもあるが、名だけで岬とはまったく繋がりそうにない場所も多い。だが、そのうちでも泊崎だけは、少しばかり違っていて、これは地形的にもかなり明らかな岬の形状をしているので、ついでにそこまで行ってみることにした。


▼国土地理院 「地理院地図」
35度56分46.15秒 140度7分46.51秒
牛久沼M-1.jpg
dendenmushi.gif関東地方(2017/06/14 訪問)

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