1448 小谷石の無名岬=知内町字小谷石(北海道)砂金の魔力が人を動かしこの地域にも人が入り込み蝦夷との抗争も… [岬めぐり]
小谷石のバスの終点は集落の南にあるが、ひとつ手前の滝ノ澗で降りて少し引き返す。そこには無名だが、なんとなく記録しておきたいような出っ張りがあるからだ。道路がカーブして小谷石の集落と港を抱える入江の北側で、立石と岩島のあるところは、岩礁が埋め立てられて護岸ができ、駐車場やトイレがあるスペースになっている。これができたのは、1999(平成11)年で、その名も「イカリカイ駐車公園」というのだそうだ。
この無名岬にそういう整備工事がわざわざ行なわれたのには、当然理由があるだろう。それは、矢越岬の展望スポットが必要という理由ではないか。
入江は浅い凹み程度で、深く湾曲しているわけではない。しかし、ほんのわずかの角度のズレでも、視界は大きく制限されてしまう。その奥にある集落のなかに入ってしまうと、矢越岬はもう見えなくなってしまうのだ。
小谷石の漁港の南側にも、ちょっと大きく張り出した岩峰があるので、集落からはその陰になる矢越岬は見えない。だから、その展望を楽しむには、集落の手前のここで足を止めなくてはならない。
もちろん、さらに歩を進めてその出っ張りを回りこんで行けば、もっと矢越岬には接近することができる。地図を見ると、回りこんで少し先までは建物もあり道らしきものもある。
そこまで行ってみたいとも思ったのだが、バスの終点からそこまで歩いてまた引き返してくるには、時間が不足している。折り返しのバスが出るまでわずかしか時間がないのだ。
なにしろ、小谷石まで往復できる便はこれだけだから、逃すわけにはいかない。ま、そういうわけで、手前のここで降りて、折り返しのバスを捕まえることにした。そのほうが若干時間にも余裕ができる。
道の脇から、展望台へ登る鉄製の階段ができていたが、そこまで登るほどの時間はない。小谷石には数軒の民宿もあるので、泊まることも考えてはいた。だが、矢越岬以西の行程を考えると、そういうわけにもいかない。
「知内町史」には、「小谷石に初めて定住したのは万右衛門・市助・惣重郎という者で入居は宝暦以前、延享・寛延の頃」という記述がある。
延享・寛延年間といえば、1744〜1750年頃のことで、町史の年表にもたびたび出てくる『大野土佐日記』という史料が書かれたのは、その後すぐの1751(宝暦元)〜1829(文政12)年の間くらいだろうとされている。
これがまた、“北海道最古の古文書”とかいうスゴイものらしいが、史料としてはいささかその信ぴょう性に難もあるらしい。
「1445 狐越岬」の項では、「金山には当たらなかったけど温泉は出た…」と書いていたが、この金に関する記述もこの史料によって「知内町史」が年表に収録されていた。実は、それによると金もまったく出なかったわけではなく、砂金などの記録がいくつかあったようだ。
そして前述の幕府の調査で結論が出たかと思いきや、1874(明治7)年になってもお雇外国人のアメリカ人、H・S・モンローが道南から道東にかけての地質調査を行なっている。その際にも砂金の埋蔵量調査のため知内に来る、という記録も残っているから、金に対する人間の欲望はどこまでも計り知れないものがある。
小谷石に人が定住を始める500年以上も前から、この付近に人が入り込んでいたのも、もともとは金を探し求めてやってきたのだった。
将軍源頼家の命によってこの地に派遣されたのが、甲斐国いはら郡領主荒木大学であったというのはなるほど甲斐の国かあ、と納得させる。だが、その荒木らの一行が、まず最初に人の近寄りがたい矢越岬を目指したというのは、どういうわけだったのだろうか。彼らは、“矢越岬から渚づたいに涌元へ行って上陸”したと『大野土佐日記』は書いているが、それは1205(元久2)年のことであったという。
しかし、1260(文応元)年の蝦夷蜂起により、“荒木大学ほか掘り子全員が土に帰”ったと、その史料は記している。また、1457(長禄元)年には、南條季継の脇本(涌元)館が、コシャマインとの戦いで落城している。
“蝦夷征伐”というのが、この当時北を目指した和人のキーワードであったし、それからも長くアイヌとの抗争は続くことになる。
そして、1789(寛政元)年に道東で起こった“クナシリ・メナシの戦い”の終結をもって、和人の蝦夷支配体制が固まっていく。
▼国土地理院 「地理院地図」
41度32分7.29秒 140度25分43.84秒
北海道地方(2016/09/05 訪問)
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