1447 ナマコ岬=知内町字小谷石(北海道)この岬について書いている記事もほかにないだろうけど書けることもないので… [岬めぐり]
涌元から小谷石の間には、人家がまったくないと書いていた。したがって、涌元築港前のバス停から小谷石集落の東、滝の澗バス停の間3.8キロには、バス停がひとつしかない。ひとつでもあるのが不思議なようなものだが、そのバス停の名は“亥の子キャンプ場”。
ナマコ岬はそのバス停の南で、“逆くの字”型にちょっと膨らんだところである。キャンプ場がどこなのかよくわからないし地図にも記載がないが、海岸の道路脇のところか、あるいはちょうどバス停付近から一本だけ山にはいる細道があるので、それを登っていくのかもしれない。
ナマコ岬という名も、なにも根拠なしにつくような名前ではなく、いかにも何かありそうだが、単純にナマコが獲れるところから…というようなことでいいのだろうか。
大方の地球上の生物に共通して言えることでもあるが、ナマコもなんでこんな生き物がいるのだろうかと不思議に思う。西洋ではカキについて同じような話が有名だが、夏目漱石は『吾輩は猫である』で、ナマコについて似たようなことを書いている。もっとも、それは名無しの猫が語る本文ではなく、「珍野苦沙彌先生虎皮下」として「在巣鴨 天道公平」なる得体のしれない人物から届いた意味不明の手紙のなかでであり、しかもフグとの合わせ技で出てくるだけだ。そこでは、「…始めて海鼠を食い出せる人は其膽力に於て敬すべく、始めて河豚を喫せる漢は其勇気に於て重んずべし。」としている。苦沙彌先生はともかく、漱石先生自身ははっきり西洋では有名な話を念頭に置いてのことだろう。
しかし、でんでんむし的にはフグはともかくナマコはカキとともに比較的馴染みがあって、これを食べることにさほどの胆力は必要としなかった。昔からよく酢の物や大根おろしと合わせてコリコリと食べていた。たいして栄養にもなりそうでもないが、その食感や珍味を愛する食文化もおもしろいものだ。歴史的にみても、『延喜式』に載っているくらい古くからの食材であったようだ。食べていたのと同種かどうかは不明だが、潮が引いたあとの広島湾の海岸には、ネズミ色のナマコはそこらじゅうにごろごろしていた。
それにしても、ナマコに“海鼠”という字を当てるほうにも、相当な胆力がいるのではないか。なにしろ、ネズミですからね。当て字の天才だった漱石先生も脱帽だろう。
瀬戸内海の海岸では、わりとそこらにいたものだから、暖地性の生物かと思えば、北海道や青森でもよく獲られていて、乾物として利用する香港に輸出されているという。
とりあえず、北海道にナマコ岬があってもおかしくないことはわかったが、それ以上のことはわからない。
このナマコ岬付近の道は、岬から南は少し西に振れながらも南北に走っているが、ナマコ岬からはちょうど津軽海峡を挟んで、真東に正対して40キロ先が、下北半島の最北端、大間崎の弁天島にあたる。
また、南側の遠くにもうっすらと陸地の影があるが、こちらは南南西33キロ先の津軽半島の最北端、龍飛崎付近ということになる。
津軽海峡は国際海峡なので、ロシアや中国の船が通ってもOKなのだ。日露戦争のときには、バルチック艦隊がウラジオストクに入る航路として、津軽海峡ルートも真剣にその可能性が検討されていた。また、またもっと前に遡ると、開国以前からこの海域でのロシア船の往来がいくつもの歴史的事件事実として記録されている。当初は道東がその舞台だったが、だんだんと海峡を経て当時の行政の中心地であった松前に事件の現場は移ってくる。
1786(寛政6)年のロシア商船による津軽海峡通過、1793(寛政5)年の大黒屋光太夫ら漂流者6名を連れてのラクスマン来航などを経て、1799(寛政11)年には幕府は松前藩の知内川以東浦河までを幕府の直轄にした。
1811年(文化8)年にはディアナ号の艦長ゴローニンが捕縛され松前に移され監禁、続いて高田屋嘉兵衛船の拿捕などがあった。
日米和親条約締結後、アメリカのペリー艦隊が箱館へやってくるのは、ゴローニン事件から43年後の1854(嘉永7・安政元)年である。
はるか沖合を、大きなタンカーのような長い船が航行していた。それはどこの船だったのだろうか。
ナマコ岬の南南西800メートルのところには、低いながら峠を越える出っ張りもあるが、そこには岬の名はついていない。その代わり、海岸の岩島には影泊島という名がつけられている。
▼国土地理院 「地理院地図」
41度32分53.26秒 140度26分11.69秒
北海道地方(2016/09/05 訪問)
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