1435 赤石岬=奥尻郡奥尻町字赤石(北海道)島の東海岸の真ん中へんにやってきたのでここらで島の字地名を整理 [岬めぐり]
南端の青苗岬から赤石岬までは直線距離で約13キロほどで、ここまでで島の東側海岸の半分強。フェリーの発着している港にも近づいてきた。
山ヶ岬から北の海岸線を見通すと、島北部の弁天岬や崖ノ岬まで、はっきりとわかるようになる。
赤石岬は、コブのようになった崖の出っ張りを道路がよぎって、よっこらしょとばかりに上ってまた下るところであるが、その背景に高さ30メートルほどの丸い小山が控えている。
この小山の上が公園になっていて、その名も“うにまる公園”。奥尻町の名産品であるウニを模したゆるキャラの名である。
道路を走っているだけではわからないが、フェリーから見ると、公園には、ウニをイメージした塔のようなものがあるのがわかる。
奥尻島の漁業は、主にウニやコンブなどの沿岸の岩場を漁場とした磯根漁業と、イカなどの漁船によるものである。かつてはあったカニ漁も、今ではそれをやる漁師がいなくなったという。また、イカやホッケも一時期は盛んだったが、機械化など外的な変動との波間に沈んでしまう。アワビは、種アワビの供給くらいで、生産地の勢いはない。
その公園からさらに丘を上ったところには、奥尻高校があると、道路際の標識が教えてくれる。20数人程度だという高校の卒業生は、その全員が卒業と同時に島を出て行く。島に残っても仕事がないからだ。
高齢化は進み、限界集落も課題になる。義援金なども多く寄せられて、被災者の多くが借金なしで家を建てたと言われるが、町の財政は借金にあえいでいる。漁船などの保障も手厚く行なわれ、港湾公共事業で一時的には潤うが、将来的な展望は開けず、“水産土木栄えて水産業滅ぶ”とも言われてきた。観光客も被災前の水準には戻らない。復興は、なかなか「できた」とは言えないような、厳しい現実もあるはずだ。
だが、それらは町のサイトからは片鱗も見えない。
きれいごとばかりで覆ってしまうのが、行政の広報だとは思えないのだが…。
2016年8月現在で、男性 1,458人、女性 1,352人、合計 2,810人、世帯 1,575世帯という奥尻町は、いかにも小さい。小さいからまたできることもあるのではないか。(というのもまた、きれいごとにすぎないのだろうか。)
公園の下、北側を流れている烏頭(ぶし)川から北は、字地名も赤石から奥尻に変わる。
1872(明治2)年に島全体が奥尻郡となり、「釣懸」「赤石」「薬師」「青苗」の4つの村が置かれた。釣懸というのは、町のシンボルにもなっている“なべつる岩”にかかわる名であろうが、これが後に奥尻になっている。赤石と青苗は今もそのままだが、“薬師”というのがわからない。
それはいったい、どこらへんのことなのだろう。
( ↑ Mapionの全島図のうえにでんでんむしにおいて字地名をマッピングした。)
1941(昭和16)年には島の字地名が改称されている。それによると、
青苗(旧名通り) 米岡(千畳) 富里(青苗沢) 松江(薬師・初松前) 赤石(恩顧歌・赤石・富士川) 奥尻(釣懸・谷地) 宮津(茶津・東風泊) 球浦(球島) 湯浜(幌内・神威脇) 稲穂(のなまえ・菰澗・勘太浜)
というように整理されているのだが、ここで“薬師”は弥右衛門岬のある初松前付近にあったものが、松江に統合されたことがわかる。
つまり、最初の4つの村は、すべて島の東海岸の南部にだけ集中していた。それが、70年後には北の稲穂から南の青苗まで、島のぐるりに集落が広がっているのだ。(球浦開拓という集落だけは、例外的に山の中)
1906(明治39)年に奥尻村として村制が敷かれ、町になったのは、1966(昭和41)年からだ。そして、現在の住居表示では奥尻町は、奥尻の北から逆時計回りで回ると、
球浦 宮津 稲穂 湯浜 米岡 青苗 富里 松江 赤石
と9つの字になっている。
1941年にあった字で、現在の地理院地図(旧字名を一部残して表記している唯一の地図)からも、その名が消えているのは、薬師のほか、茶津、菰澗、富士川があり、釣懸と青苗沢は川の名になっている。
また、新たに加わっている小字名として、仏沢、滝ノ澗、藻内、砥石が拾い出される。
▼国土地理院 「地理院地図」
42度9分14.24秒 139度31分18.62秒
北海道地方(2016/09/04 訪問)
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